倉敷建築工房 山口晋作設計室
私の考え方/ヤマグチ建築デザインの思想 (再掲)

    住まいというのは、キャッチコピーひとつで表現できる単純なものではなく、多様なニーズや条件によってつくられていくものであるので、結果として完成した建物の姿を見るだけでは不十分で、その素となる作る人の考え方というのが、その家を規定する最重要な要件だと私は考えています。以下はそういう意味での私の考え方をお伝えしています。

    現代日本の住宅生産を取り巻く状況は、戦後の住宅難の時期に現れた「住宅メーカー」という日本独自の生産方式を中心にして今日まで展開しており、直接関係が無いように見える各地域に根差す工務店までもが、建築法規と各種材料供給、職人体制というルートを通して、産業化された「住宅メーカー」の影響を受けており、メーカー住宅及びその派生版住宅で世の中の住宅地は溢れているという状況です。戦後期に住宅難の一時期の急務を担ったという意味で、メーカー住宅の功績は評価されるべきでしょうが、緊急時の必要を終えて以降はその規模を縮小すべきだったと私は考えます。40年も昔(1973年)に住宅の数が世帯の数を上回り、2005年には人口減少元年を迎えているというのに、都市部が焼け野原で緊急時のための「安い材料で短時間に大量の住宅を造る」というこの住宅産業という代物は、豪華さは増したもののその基本思想は変えないまま、70年近くの現在も継続しています。
    私が違和感を抱くのは、「住宅産業」という言葉にくっ付いている「産業」という言葉なのですが、そもそも、住宅というのは、人間生活の基本的必要であって、「衣食住」などと言われるように、「工業」や「産業」というものが、出現する以前からあるもので、家電やクルマなどのように工業化しないと世の中に出現し得ない代物と違い、住まいというのは、人がこの世界に生まれたそのときから、いつでも・常に・同時に・いやでも、「ある」わけであり、「産業」という言葉は、本来住宅に使うべき言葉では無いように考えているわけです。
    住宅産業というのは、今日では産業としてのダイナミズムもすでに失われているので、「とにかくコストダウン」とか、「設備投資は必要最小限に切り詰めつつ、いかに経費を削るか」とかが、まずありきであって、そこには、「どんな生活を描きたいのか」という、本来の姿は薄れており、住宅産業をグルグル続け続けるというのが目的になるという、自己目的化というのがまかり通り、まかり通るのは、携わっている人も分断されて、各自の持ち場でやることをくそ真面目にやっているからで、総体として観察すれば、人間生活を横においた住宅産業界のための、日本の住まい、という逆転した状況になっているのであり、こんなに馬鹿げたことはないな、というくらい、ばかばかしい感じになっているのです。
    一方、住宅の造り方が分かる現代人が少ないというのも、少し考えると奇妙なことで、生き物として考えてみても、住宅の造り方がわからないというのはマズいことであって、農協から買う苗のように一代で終わるような仕組みだったり、ウーマンリブ運動のお陰で子供の教育を家庭でしなくなったように、その同じ方向性を踏襲して、住宅の造り方がわからない、というのはマズいことだと考えています。簡単でいいので、つまりは、納屋程度で十分なので、住宅の造り方というのをせめて中学生くらいの段階で身に付けておくというのが、これからの時代には大事なような気がします。そんなに原則論ばかり言ってもこの複雑な現代でそれはないでしょう、という意見もあるでしょうが、急がば回れであり、原則が大事で原則から出発するべきです。

 

 

 では、「産業」ではなく何かというと、やはりそれは「生活」であって、住宅とは生活の器であって、雨風・日射・外敵から身を守り、煮炊きをし、精神的にも落ち着いて日々を過ごすという、そういう目的のためにあるものであって、高価な対価を払って貧弱な家を手に入れるという要領で「産業」に隷属するなものではないはずです。
 私たち日本の住まいは、室町時代にひとつのスタイルが定まり、江戸後期まで発展し、明治大正と受け継がれてきたのですが、この庶民の生活を規範にしてじわじわと長い年月をかけて積み上げてきたスタイルは、「部屋の大きさが決まれば、家の造り方が決まる」という何とも便利な仕組みだったのですが、この職人体制と一体になった「タタミ中心オープンシステム」とも呼べる仕組みを、戦争と住宅産業が壊したのであり、それ以降、このオープンシステムは、息絶え絶えであり、なぜ海外旅行から帰ってきて飛行機の窓から見る日本の風景が貧しく感じるかというと、そこには、「生活」が見当たらず、「産業」があるように見えるからで、里山の風景が美しく見えたり、倉敷美観地区の瓦屋根が美しく見えるのは、そこには「生活」があるからであり、掛ける値段は同じでも、手に入れる美しさや質の高さ、いつまでも使い続けたいと思う愛着のようなものは、「住宅産業」が造る住宅にはなく、「生活」から生まれた住宅がその成立過程において自然に身につけたものなのです。
 「生活」から生まれた住宅というものは、新しくても風景に馴染むものであり、一個人が一生懸命考えたものよりも、室町以来の無限に近いひとのチェックを通って残って来たものの方が、より実際的現実的な回答であり、そういった日本の民家というものをベースにしつつ、現代の住まいを考えているのが私の事務所の考え方です。
 それは「戦後の住宅生産体制」によってもたらされた「断絶」が、仮になかったとしたら、室町から続く日本家屋の伝統が現代にまで生き延びていたとしたら、どのような住まいがあり得るのだろうか、という視点を持ち建築デザインを行なう方法で、上からではなく下からであり、産業ではなく生活であり、閉じるのではなく開くことが大事で、特別につくるのではなく自然にできるものの方が良いとするもので、物質的にも精神的にも時間の経過に耐えられ、かつ見た目も美しく、そして建築主はもちろんのこと材料屋も含めて施工に携わるみんながハッピーになれる方法だと、そのように私は信じています。
 以上の考え方を基本にして、ヤマグチ建築デザインは活動しています。よろしくお願いします。

 

(以上は、2013年6月17日に書いたものの再掲です。元記事はコチラ。

 文体が、ややトンガっているきらいはありますが、原文のまま、再掲しています。)

| 20:23 | comments(0) | - |

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