近代日本建築史における「古民家再生工房」 | 建築随想「仙芳丸航海日誌」
ヤマグチ建築デザイン
近代日本建築史における「古民家再生工房」

<現代社会の残念なところ;住んではいるけど、暮らしていない>

住まいとは、なんでしょうか。日々の暮らしを落ち着いて過ごすための「巣」であり「砦」でしょうし「寝床」であります。それと同じように大事なものが、周りの人との関係です。現代社会生活の「もどかしさ」を現す言葉として、「住んではいるけど、暮らしていない」という言葉があります。「暮らし」を豊かにするのは、住んでいる地域においての「人との関わり」であり「モノやカネの循環」です。かつては、自分の集落(「大字」くらいの規模)の中だけで、その二つが巡っていましたが、今では、世界を相手にそれをやっているので、児島に住んでいても、イオンやアマゾンで買い物をするし、周り近所の人たちとの関係は益々薄まっています。平日は、朝と夜しか家におらず、休みの日には、遠くに遊びに行き、地元を見下して、児島には何もないし、岡山はダメな街だ。という事になります(児島は県内で5番目の都市でそれなりの規模の街ですから、そんなにダメとも思いませんし、私なんかはとても素敵な街だと実感しています)。そういう状態を「住んではいるけど、暮らしていない」といいます。「砦」である住まいから出て行って、最近流行りの「なんとかマルシェ」に通うのは、そういった「乾き」を受け止めてくれるからです。街の暮らしを豊かにするのは、地元に住んでいる人たちが自らのお店を切り盛りした店に通い、顔を見ながら、買い物をするという状況で、こういう方面が重要だということで、最近では「地方創生」などと、叫ばれていたりします。

 

(児島マルシェ;会場配置計画を担当)

 

<日本の住まい史は「縄文(弥生)+江戸」だけ>

歴史の中で華々しい扱いを受ける建物というのは、権力者の建物であり、我々庶民とはあまり関係のない世界です。『日本建築史図集』(彰国社)のほとんどは、仏教建築であり、日本建築史とは、仏教建築様式史でしかないものです(ヨーロッパだと、教会建築史、となります)。住まいの歴史だけに注目すると、日本の住まいは、縄文の住まい、弥生の住まい、そして、江戸の住まい、くらいしか、世の中にはありません。戦後の焼け野原を立て直すためにプレハブ住宅が試みられましたが、70年の歴史を重ねながら、今だに「供給側の論理」でしか、住まいを考えておらず、蹴ったら壊れるようなボロい住宅ばかりが作られており、日本の風景を壊し続けています(住宅産業のダメさ加減については、こちらのリンクを参照してください脱産業生活由来型建築論考集・全24項)。

 

<茅葺民家は、「縄文+弥生」>

岡山県の県北・新庄村まで行くのに、高速ではなくて、下道を走ると、茅葺き屋根を鉄板で覆った家々をたくさん見かけます。岡山県以外でも、おそらくそうでしょうけれど、2020年が来ようとしている現在でも、相当な数の「生き残り」が、棲息していることになます。なんの「生き残り」かというと、産業革命に端を発する近代文明が日本を覆い尽くす前の時代、近代が日本にくる前の時代の「生き残り」です。茅葺屋根の住宅の代表選手は、「箱木千年家」(過去の遺産へリンク)ですが、これを見てよくわかるように、地面から三角屋根が生えている竪穴式住居に追加されたのは「背の低い壁」と室内の「木の床」です(これらは、弥生の住まいの特徴です)。そういう目でみると、茅葺き屋根の住宅というのは、縄文時代の住まいに毛が生えた程度の住宅と言えるでしょう。

 

(箱木千年家 外観)

 

(箱木千年家 内観)

 

そして、どうやら、戦前の東北においては、岡山の「茅葺き屋根住宅」くらいの存在確率で「竪穴式住居」が存在していたというから、山川の教科書が、縄文時代の「タグ付け」として「竪穴式住居」を使うのは、あまり、有効でないように思います。地面に穴を深く掘って、「凍結深度」より深く掘り込み、日々の生活に地熱を利用した竪穴式住居は、寒い地域である東北以北で、ワンサとあったようです(私の事務所が東北以北にあれば、新築であっても必ず地面を掘っていたでしょう)。今でこそ、住宅の床は、地面から60センチほど上げることになっていますが(しかも法律で決めてまで)、室町から江戸になって、上がり始めた床が、地面から全部上がりきったのは、ついこの間、戦後のことで、戦前までは、「縄文時代の住まいに毛が生えた程度の住宅」が、そこら中にあったことになります。

 

<古民家再生は、縄文とモダンの衝突>

「古民家再生工房」がやったことは、(特に茅葺民家に限って言えば)「縄文+アルファ」が、いきなり、「モダン」と出会うという振り幅の大きい刺激的な行為でした。古民家再生工房は、近代日本の建築家たちが、見向きもしなかった「古民家」を題材にして、庶民でも体感できる「生身の建築」を作り出すことに成功しました。成功したというのは、前回楢村さんが授業で言った通りで、30年前にやったことが、結果として多くの範囲での社会的課題を解決しており、日本全国、広い範囲にその手法が広がり、かつ、住んでいる人がかなり喜んでいる、ということです。

 

(楢村徹「甦る民家」)

 

さて、少し、専門学校らしい話題を出します。建築史の専門用語が出てきます。「様式」です。

 

「様式(style)の始まり」というのは、西洋建築においての「ルネサンス」だと言われています。それまでは、エジプトは別枠として、ギリシャ・ローマから始まって、あくまで自然発達的にゴシックまで一直線にやってくるのですが、ルネサンスの時点で、建築というものは、人為的に操作されて、取捨選択されて、好みによって選択可能なものだという理解を得るようになりました(皆さんもいつかヨーロッパに旅行して、あちらの建築を味わってみてください)。施主はもっぱら権力者ですから、ここに権力者のために建築を設計する「建築家」と呼ばれる人たちが誕生するのです。当時では、ブルネレスキやミケランジェロなどが有名です。

ここで一つ注目すべき変化あります。自然成長的に建物が推移していった時代と、それ以後の時代では、建物と人の生活というものが、やや疎遠な状態、乖離している状態が生じて来ました。以前は、機能的に、必要に応じて、それぞれの建物で行われる生活に応じた建物の形が、出来上がっていったのですが、ルネサンス以後では、生活からの乖離が発生して行きます。

 

近代社会の思想と技術が日本にやってくるのは、江戸の終わりですが、その後に明治を飾った象徴的な建物は、学校や郵便局を含めた官庁建築を始め、大きな会社の社屋、お金持ちの邸宅など、そういったものでした。その一方で、庶民の家というのは、下津井の私の家(明治39年築)の写真を出せば、このようなものでしたし、江戸の延長で作られたものばかりでした。皆さんの近所にも、茅葺を鉄板で覆った空き家が、いまもあるでしょう。

 

(下津井田之浦の山口邸)

 

(下津井田之浦の山口邸)

 

大都市の為政者や権力者、新興成金たちは、時代の感覚を反映した住宅を楽しんでいましたが、都市にいても品のある人たちは、江戸建築のもう一つの高みである数寄屋建築を奢っていましたし、地方都市の豪商などは、茅葺の母屋の脇に、洋館を建てたりと、縄文と江戸を基軸にしながら、少しの洋風をプラスした混在した生活をしていました。また、同時に大正期に入ると、技術的な裏付けが、特に構造について、次第に確かなものになって来ましたので、かつての住まいが持っていた生活に裏打ちされたポテンシャル(モース著上田篤訳『日本のすまい 内と外』住まいの図書館出版局、あるいは、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』1933)を無視したような作り方を、「技術風」を吹かせて改変していく流れも並行して進んでいました。

 

いま私が手に持っている本は、昭和13年に初版が出たもので、明治の教育を受けた学者が工業高校のために作った教科書です。この本には、江戸で完成された日本建築の豊かさが詰まっていて、いまでも有益な本です。下津井の同級生である大工の那須君に貸したこともあります。これは、私が学生当時に大学図書館の本を全ページコピーしたものですが、この本はかなり評価が高いため、現在では、学芸出版社から、改訂版が復刊されて、普通に書店で買い求めることができます。オススメです。

こういった本で勉強した人が、戦後になっても、大工をしたり、設計をしたりしていましたが、戦前に大都市で流行った「洋式建築」や、戦後の建築家が果敢に挑んだ「モダニズム建築」などは、一般庶民の住宅には普及せず、明治以降の建築界の動きで庶民住宅に影響を与えたものは、地震対策や水道の普及による設備関係などの技術的な側面が強いものでした。

 

1970年の大阪万博を通り越して、今後の住宅はどうあるべきか、という課題を、若かりし古民家再生工房の面々は考えていました。1980年代になって、バブル経済の追い風を受けて、無国籍な住宅がプレハブメーカー主導で量産されるようになって、ますます危機感を感じている中で、「文化としての住宅を考える会」を下地として、新築でも保存でない、その間の道があるだろうと、1987年に「古民家再生工房」をスタートしました。

 

(矢吹昭良「甦る民家」)

 

古民家再生工房は、近代社会が日本を覆っていく中で、木造住宅の行く末を憂いていました。擬洋風はカッコ悪いし、様式建築を選択する気もない。かと言って、丹下健三大先生が成し遂げた世界に通用する日本のモダニズムのトンがった思想の先っちょを目指す能力もない。そんなものを目指せば、二流三流に陥ることは目に見えている。そういう自覚を持ちながら、彼らの興味の先は、ヨーロッパの雑誌に出ていた大都市のブランドショップなどが、古い煉瓦造の建物を大改造した建物の方に向いて生きます。

彼らは、煉瓦造が日本では古民家にあたるのではないか、というところに気づき、新築でもなく、また、凍結保存でなくて、縄文民家にいきなりモダンをぶつけようとする、かなりの振り幅を持った「賭け」に打って出ました。「様式」などの概念を持たないナイーブでヴァナキュラーな民家とモダンデザインとの出会いであり、例えて言えば「千年の年の差婚」(笑、みたいなものです。そこでは、ボロい民家が、潤いを得て見違えました。新しい命を与えられ、黒い柱にモザイクタイルがぶつかり、茶色の土壁にピンクの漆喰がぶつかる世界です。造形もメリハリがあり、素人にも体感できるような分かりやすい建物でした。そもそもは、カッコいい家を作りたいという想いから古民家に着目したのですが、カッコいいだけではなくて、その家族のプライドを保ち、充実した生活ができるようなそんな環境づくりをしてしまったのです。

彼らが目論んだかどうかは、わかりませんが、彼らの手法は、古いものと新しいものを並存することにより、時間軸の表現ができるようになりました。時間軸の表現は、新築では無理だし、保存でも無理です。それは、古民家の再生だけが成し得る境地でした。

 

古民家再生工房が参考にした、アビターレやドムスといったイタリアの雑誌に載っていた事例は、都市建築の改造ですから、古くても十六世紀、ルネサンス以後の建物たちです。先に紹介した「選択可能」で「生活からの乖離」が見られるような様式建築です。それに比べて、日本の茅葺民家は、生活臭が強く生々しいヴァナキュラーな縄文民家で、軽く500年くらいの年月の差がありますし、庶民住宅と都市建築という差も大きいものです。イタリアを参考にした岡山の古民家再生工房ですが、気づけば、本場よりも落差が大きく、振り幅の大きい仕事を成し遂げていたのです。

 

<私の設計思想>

私たち日本の住まいは、縄文をベースにして、江戸後期にひとつのスタイルが定まり、明治大正と受け継がれてきたのですが、この庶民の生活を規範にしてじわじわと長い年月をかけて積み上げてきたスタイルは、戦争と住宅産業によって大きく改変されました。それ以降、この流れは、息絶え絶えであり、例えば海外旅行から帰ってきて飛行機の窓から見る日本の風景がなぜ貧しく感じるかというと、そこには、「生活」から生まれた住まいが見当たらず、「住宅産業」があるように見えるからで、里山の風景が美しく見えたり、倉敷美観地区の瓦屋根が美しく見えるのは、そこには「生活」があるからであり、掛ける値段は同じでも、手に入れる美しさや質の高さ、いつまでも使い続けたいと思う愛着のようなものは、「住宅産業」が造る住宅にはなく、「生活」から生まれた住宅がその成立過程において自然に身につけたものなのです。

 

「生活」から生まれた住宅というものは、新しくても風景に馴染むものであり、優秀な個人が一生懸命考えた住宅産業の住宅よりも、無限に近いひとのチェックを通って残って来たものの方が、より実際的現実的な回答であり、そういった日本の民家というものをベースにしつつ、現代の住まいを考えているのが私の事務所の考え方です。

 

それは「戦後の住宅生産体制」によってもたらされた「断絶」が、仮になかったとしたら、縄文から続く日本家屋の伝統が現代にまで生き延びていたとしたら、どのような住まいがあり得るのだろうか、という視点を持ち建築デザインを行なう方法で、上からではなく下からであり、産業ではなく生活であり、閉じるのではなく開くことが大事で、特別につくるのではなく自然にできるものの方が良いとするもので、物質的にも精神的にも時間の経過に耐えられ、かつ見た目も美しく、そして建築主はもちろんのこと材料屋も含めて施工に携わるみんながハッピーになれる方法だと、そのように私は信じています。

 

 

<具体的な建物の解説>

 

では、具体的な建物の話をしましょう。

 

(ヤマグチ建築デザイン;見学済み)

戦前の縫製工場を住宅に転用して、その前に増築した棟を設計事務所としています(これは茅葺ではありませんから、直接の祖先は江戸建築になります)。この建物のポイントは二つです。「置き屋根」と「土間」です。

まずは、置き屋根。このような古い建物を再生するときの大きな課題は、屋根をどう扱うか、という点です。屋根の部材(垂木から上、場合によっては母屋も腐っているので交換する)は、交換するというのが通例ですが、この時の私は、それをしたくなかった。上を見上げて、新しい屋根裏を見せたくなかった。そこで、先人の知恵である「置き屋根」という形式をとりました(過去の遺産へリンク)。

次に、土間。私が生まれた家は、下津井で明治の終わりに作られた家で、「通り土間」がありました。小規模の海運貿易をしていた漁師が朝鮮で儲けたお金で建物です。築110年が過ぎており、今も下津井にあって、人様に住んでいただいています。そこで二十歳まで暮らした感覚が、自分がこれを設計する30歳になった時にも生きており、尚且つ「土間がダメな理由」というのが見出せなかったので、そのままの感覚を延長して、土間生活を選んでいます。土間の効用についてはこちらなどを参照ください(MINKAを学び、DOMAに行き着く)。

 

 

(児島の擬洋風;見学済み)

洋風の家がいい、なんなら、お菓子の家のような家がいい、という隣のおばちゃんのご希望で、こんな家を設計しました。木造で洋風を作る、というは、明治の初期の大工たちがやり尽くしているので(これを「擬洋風」と言います)、岡山にある擬洋風建築を探して、取材の旅をしました。参考にしたのは、玉野の山田という地区にある国の施設で塩を売るための施設です。

また、細部では、ドイツの木造住宅のディティールを参考にしています。カラーリングは、児島の明るい太陽に映えるような色合いにしています。

 

 

(一宮の農家)

戦中に建てられた農家住宅の離れの再生工事です。

二世帯の住まいの間に、かなり広い土間があります。若いクライアントと話しながら、作り出した土間でしたが、工事が進むに連れて、お父様から聞いた話では、建設当初と全く同じ広さの土間に戻っているということでした。お父様は、現役の農家でもありますので、親世代の生活スタイルと住まいが合致しており、若い世代の暮らし方にもうまくかみ合っているという結果となり、自分でも感心したものでした。

この家は、石の基礎でしたので、一度その場で全てをジャッキアップして、コンクリートの基礎を作り直して、地面に降ろしました。降ろす瞬間は、この家がもう一度新たな命を得た瞬間でしたから、関係者一同は少々の感動を覚えました。

柱の足元に束石のような形をした木で作った台形状のものがあります。これは、柱の力を受けているわけではありませんが、これがあると、見るものが安心するので、よく作っています。これと同じものが、この教会の和室棟にも有りますので、帰る前に確認しておいて下さい。

 

 

 

 

(児島聖約キリスト教会・和室棟;見学済み)

明治初年に新築された客間の再生です。設計のポイントは、新築時の棟梁が熟慮し、精魂込めて作った8帖座敷をそのまま復元し、その周辺に限って手を加えることで、8帖座敷の特別性を強調することでした。それはこの8帖間が、かつての庄屋の一番良い部屋であったということだけでなく、この部屋を残すことにより、40年間毎週礼拝説教が語られてきた場所であるという記憶を繋いでいくことができると確信したからです。

すなわち、ここでは日本建築の典型的な型ともいえる座敷空間をより質の高いものにすることが、そのまま教会建築としての魅力を高めるための回答となっています。

そのための主な手立てを3つ用意しました。1)手前の部屋(10帖間)の床を下げ、寄木床板・漆喰大壁などで、和洋の対比・新旧の対比を図る。2)座敷の床を浮かせ、座敷の特別性を強調する。3)南東の角をオープンにして、庭との段階的な連続性を得、日本建築特有の軒下空間の豊かさを得る。

 

 

(児島聖約キリスト教会・礼拝堂;見学済み)

さて、これで最後にします。

いま皆さんが座っている礼拝堂は、1995年、20年以上前に新築されたものです。計画当時、私は高松高専の土木科に通っていましたが、この建物の建設過程に大いに刺激を受けて、建築の道を志しました。江戸時代の母屋を残して再活用したらどうなるだろうか、という前提で、事前に、楢村さんにも相談があったそうです。その後、教会建築の専門家であったヴォーリズ事務所に依頼して、設計がなされました(ヴォーリズが生きていた時代の戦後すぐに、ヴォーリズ自身によって旧母屋が改造されたという経緯がありました)。この新築部の屋根をみるとわかりますが、コンクリートで作るけれども、既存の座敷と蔵を含めた形で、トータルで和風の教会堂としようという意識が強く働いていることがわかります。コンクリートだから、和風は成り立たない、というわけでもない、ということを覚えていてください。

 

 

 

 

このあと、教会から5分くらいのところにある浦辺鎮太郎さん設計の建築を見学して、その後解散です。

こちらは、倉敷国際ホテルを建てた後の設計で、両備バスの児島営業所です。倉敷文化センター(現・倉敷公民館)となんとなく雰囲気が似ているのですが、なんとも言い難い造形をしており、浦辺さん独特のモダニズムがみなぎっている建物です。前回の授業で楢村さんが言っていた通り、質の高い建築が街の魅力を高めているという好例です。現在は空き家になっていますが、今後、活用を望まれている建物です。

 

 

 

以上で、終わります。

 

岡山理科大学専門学校「古民家再生論機

非常勤講師楢村徹代理授業

2018年4月28日(土)

 

見学建物;

ヤマグチ建築デザイン(設計;山口晋作、2008)
児島の擬洋風(設計;山口晋作、2013)
児島聖約キリスト教会和室棟再生(設計;楢村徹+山口晋作、2008)
児島聖約キリスト教会礼拝堂新築(設計;ヴォーリズ建築事務所、1995)
両備バス児島営業所(設計;浦辺鎮太郎、1966)

 

推薦図書;
中谷礼二『実況 近代日本建築史』LIXIL出版、2017
上田篤『日本人の心と建築の歴史』鹿島出版会、2005
宮本常一『日本人の住まい―生きる場のかたちとその変遷 』農山漁村文化協会、2007
古民家再生工房『古民家再生術』住まいの図書館出版局、 1995

渋谷五郎+長尾勝馬『日本建築』学芸出版社、2009

モース著上田篤訳『日本のすまい 内と外』住まいの図書館出版局、1979

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』1933

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