これからの住まい;食べるためのすまい | 建築随想「仙芳丸航海日誌」
ヤマグチ建築デザイン
これからの住まい;食べるためのすまい
前回は住まいは眠るためのもの、と言ったが、それは、突き詰めて行けば、眠ること以外は他者との関わりの行為であって、例えば食事にしても、今でこそ一人で食事をする人が多いが、昔は貴重な食物を皆で調理し皆で分けて食べていたことから、屋外で行なわれることも多く、眠るためだけの住まい、というのがかなり存在したということから、推論したものでした。

では、食べることについてはどうか。もう少し考えてみたい。
テレビが茶の間の主役になったのは、40年程前だろうか。それまでは、建て前であっても一家の主たる父親が食卓の中心であったはずだが、テレビの置く場所を考えた際、もっとも相応しかったのが、つい昨日まで家主が座っていた場所、もしくは方向だったようだ。その際、父親としては渋々場所を譲ったのではなくて、自分の手柄のごとく嬉々として譲ったのであろうから、この時点で、すでに、家庭内における父親の占める位置というのは、儒教などの影響の元を離れ、今日2010年代のそれに近い感覚だったのだろうと思います。

それまでは、一つの机を取り囲む「囲み型」だったが、テレビの登場により、一つの方向を皆で見る「劇場型」へと、変貌したのです。「囲み型」というものは、座る位置に上下の格付けがありつつ、且つ対等な形式でしたが、「劇場型」というのは、誰も彼も劇場たるテレビの前に同じ方向を向き均一化された者たち、つまりは視聴者であって、その違いは、端に文明の利器が家庭にやってきたという、生活が楽しくなったとか便利になったということに留まらず、家庭内の家族のあり方を大きく突き動かす存在だったのではないでしょうか。
文明の利器というものは、それ自体は熱意を持った開発者が尽力して世のため人のためと思ってつくったものでしたが、テレビが家主の権威を遂に追い落としたように、また(薪で火を起こす技術を不要とした)炊飯器が嫁姑の序列に水を差したように、人の生活というものを大きく変えて行く力を、結果として持ってしまいました。

食べるという行為は、とりわけ、夕食を食べるという行為は、昼間の活動から解き放たれた夜の時間、一日の中で一番くつろげる時間に家族皆で行なう、ある意味もっとも人間らしい行為でしょう。食卓の照明に青白い蛍光灯を使わない方が良いことは、多くの人に知られていることだけれど、炎に端を発する白熱球の放つ雰囲気というものが、囲炉裏であったり、カマドであったりする昔の感覚を呼び覚ますのであり、家族で食べることというのは、眠ることに次いで、家族が家族である所以とも言える行為でしょう。

さて、食べることが住まいで行なう第二の重要な行為である、ということをみてきたが、それはそれとして、昔の再現をしつつ現代の生活の中で楽しむ行為というのは、考えてみれば他にもあり、余暇を楽しむ山登りもそうであるし、陸上競技もそうだろう、犬や猫をペットとして飼うこともそうだろう。そのようなことは、かつて古墳時代や中世の人々がしていたことを、より洗練させて、文化的に仕立て直して、我々が行なっているに過ぎないのではないかと、食べることを考察しつつ敷衍してみた。洗練とか文化とかという言葉は、余り使いたくないが、そうであれば現代的という安易な言葉で代用させてもらうが、そういった、余分ごととも思われることを、現代の人が実感として身に迫る充足感を得るためには、できるだけ、かつて、昔の人がしていたような状況で行なうのが望ましく、そういう再現性を、住まいの中で手っ取り早く行なっているのが、「食べること」であると言えるのではないだろうか。

テレビ番組というものが軒並み求心力を失っている昨今、いっそのこと、テレビをお茶の間から押し出して、オトーさんも、オカーさんも、娘も息子も食卓に就いて、白熱球、もしくは、白熱球の雰囲気が出る代替球の照明を用意し、ロウソクの三本でも中央に立ててあげれば、もうそれだけで、中世の再現が出来上がり、即、幸せな食卓が取り戻せるという算段になる。
松下のスマートテレビCMを民放各社が全部拒否したことは象徴的だったが、実際は自分たちが箱ごと(テレビごと)全拒否されるような状勢で、ここにきて、住まいにとっての重要な「食べること」というものが、ますます、住まいの中心になってきている。そんな時代を映し出す、「食べること」に的を絞った住宅というものがあってもいい。

 
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