お宅訪問 | 建築随想「仙芳丸航海日誌」
ヤマグチ建築デザイン
30度の坂道に棲む;民俗学者の家


地方都市に住んでいると、にわかには信じ難いが、大都市の住宅街というのは、写真のように急斜面であっても、斯様に過酷な条件であっても「住宅街である」のです。あと三十分間、通勤距離が伸びたら、あと800万円土地購入の予算が確保できたら、それはそれでまた別の選択肢があるのでしょう。しかし、そうではなく、30度の坂道を前面道路とする敷地を購入して、そこを住まいとしようとする姿勢は、消極的ではなくむしろ積極的に今の社会の有り様に自らの身を委ねて、坂道に棲む付いているというのが、お話を聞いていて感じたところです。
この坂道で自らコンクリートの型枠を組んで施工までしたというのですから、建築工事は素人とは言え、その向かう方向を保つ建築主の意志というのは、棲むことに対する攻撃的とも言える欲求であり、現代人が忘れた本来の人間の持つ初源的必要性である「住むということ」を真正面から実現しようとするもので、それは、人間の持つ基本的欲求とも言えます。



この日は、6時間程このお宅に滞在し、この家の主が、現地インドネシアの村から買って来た珈琲、マンデリンの生豆(豆の等級は中の下)の殻を皆でむしり取りつつ、談笑するという滅多に無い絵柄が展開されており、さらにすぐ脇では、某博物館学芸員が手動焙煎器でお好みの炒り方でコーヒを造ります、というお茶会とも言える時間を満喫したのでした。

インドネシア固有の住宅というのは、バナキュラーな住宅というのは、とても屋根の高く尖っているものが多いのですが、それは、日本の民家のように、雨が漏らないように急な勾配にしている、というのではなく、そうではなく、それ以上に急に、というか、尖った屋根をしています。



それで、内部は、さぞ、立体的に使っているかと思うと、そうではなく、平たい面が拡がっているだけで、二階も三階も無く、高い天井が拡がっているそうです。「なんで、高いんですか。」とその民俗学者の方に聞くと、「神々(gods)が宿っているんです」ということでした。

家に住まうということは、かつては、自然を感じつつ、でも逆らうのではなく、一部分を感謝して利用させていただくという具合に、具体的には、床を高くして湿気を避けたり、飲み水のために雨水を蓄える甕(かめ)を用意したり、野生の危険な動物から身を守ったりしたもので、そのなかで、自分たちの命を守ってくれる住宅に共に神々が住むのだ、という意識もって、彼らは住んでいたようです。

では、現代日本ではどうでしょう。この方は、30度の坂道に住む、ということをもって、土地に定着して、今の日本で生活することを表現しています。
大都市ですから、賃貸住宅でも構わなかったはずです、また、家自体はそれほど特徴のあるものではありません。予算を加えて平らな土地に住むことができたでしょう。調査先である現地の感覚で言えば、水の問題から高い土地に住むというのは、余り現実的ではありません。かつてのインドネシアから見れば、いや、日本の昔の世界からみても、突飛に見えるような土地に住んでいます。

この方にとって、現代日本の大都市に住まう、というのは、「30度の坂道」という大都市住宅地の特殊敷地を「神々」と見立てて、その場所で居を構え、神々と共に住むのだ、そうだ、そういうことだろう、と美味しい珈琲を飲みながら、考えたのでした。
| 22:58 | comments(0) | - |

児島の擬洋風建築の代表格;紡績会社の家
明治の洋風建築(125年前)のお宅を拝見しました。全国的に見れば、それほど注目されるべきものではないですが、しかし、児島という地区内においては、その存在意義は突出しており、児島に住む人は将来なくなる前に外観だけでも見ておく価値のある建物です。
先日、持ち主の医師・村山正則先生のお許しを得て、先生のご案内のもと、内部も拝見させていただきましたが、当時の雰囲気がそのまま残っており、やはり、建物は使い続けないと、生きていけないものなのだというのを改めて実感しました(内部は個人住宅のため、ここでの公開は差し控えます)。



「下村紡績所」という名前で郷土史にその名を留める紡績工場の経営者一族(高田姓)の分家が建設した別邸(西高田家)です。「下村」というのは、地名であって、現在の児島地区の「下ノ町」のことを示しており、かつて、児島市と琴浦町が合併する前の時代に「下村」という名前で一つの地区を成していた地域のものです。



現在の場所で言えば、「やまな病院」の海側にあたる敷地(葬祭屋、うどん屋、そして更に東にあるスーパーマーケットの辺りまで)にあった工場で、日本の紡績工場の歴史においてもその最初期に名を連ねる工場です。倉敷の「倉敷紡績(現・クラボウ)」が発足時に技術導入の手助けをしたとされています。



見ての通り、明治に流行った洋風建築のポイントをきちんと押さえた面構えをしており、とくに、一階ポーチと二階のバルコニーは、インドや東南アジアで白人が現地に建てた建物の影響を受けており、ヨーロッパを中心に見て、東周りの南洋風の建物という分類をすることができます。



もちろん、西欧の柱というのは、石、それも大理石で出来ているものが本来のあり方ですが、その辺りの材質は、日本の地域性を考慮して、いや、本音を言うと、お金がなかったからですが、そういう経緯で、この建物は木造として造られました。岡山市にある「旧・日銀岡山支店(現・ルネスホール)」は、全国的に見てもレベルの高い建築で、東京駅を造った辰野金吾という日本の建築家第一号の弟子筋にあたる長野宇平治という方の設計で、柱頭の飾りだけを見れば、日本一なのですが、柱の材質は石ではありますが、地域から産出される花崗岩であって、ここでも大理石ではありません。



明治の洋風建築と呼べるのは、レンガ造か石造というのが材質としてはボーダーラインで、木造のものは、洋風建築ではなくて、「擬洋風建築」と読んだ方が相応しいもので、その意味は、従来の日本建築の技術を使って、西洋建築に偽てつくったもの、というものです。



地方都市の事業で財を成した経営者としては、力及ばずで、石造りの洋風建築を造れなかったということですが、それでも、木造で、石造風に造ってやるぞ、という意図をもった設計者(当時は棟梁)が見よう見まねで、柱や軒先のカタチを偽て造ったものが、今回の建物のような種類のような建築物ですので、このレベルでは(「下村紡績」という会社が、道半ばでその紡績事業を中断してしまったという脇の事情も相まって)「重要文化財」には成れず、「登録文化財」ということになっています。

それでも、この地域の歴史においては、後に学生服やジーンズに代表される縫製産業のメッカとされる現在の児島の姿を築くに至った、主要な工場関連施設の唯一の生き残りですので、例えば、野崎の記念碑や野崎の灯台と同じレベルで、地域に住む小学生が見学に行って然るべきレベルの地域の財産です。



持ち主が児島を離れて以後空き家になっていたのを、村山正則先生のお父様が、この建物を昭和10年に借り受け、以後現在に至るまで、村山先生の管理のもと、使い続けられています。この庭で登っていない木はないよ、全部懐かしい木だ、ほら、灯籠も可愛いだろう、でも、管理が大変なんだ、と、こぼす先生は、御年87歳。今後、近い将来、この建物は、後継者に委ねられますが、住むに難しいこの建物も、往々にして、放置され、いつの間にか朽ち果てるときが来るでしょうから、病院併設のカフェ&雑貨店、それに加えて二階は事務所にするなど、なにか意識して使い続ける努力をしなければ、歴史の証人は、簡単に姿を消してしまいます。

建物は、使い続けられてこそ、生き延びるものです。かつて、建築学者たちは、「とても貴重なものだから大事にしてください」といって、この種の建物の持ち主に言い残して帰ったのだが、そういわれても、住む側としては使い難く金はかかる一方なのだから、本来は、「これこれ、こうしたら、この建物が活かせますよ」と言うべきで、今の時代であれば、任せるべき人に任せれば、如何様にでも、転用でき、むしろ経済的にも利益を生む存在になり、後世に残るものになるはずです。

児島の擬洋風建築の代表格、ぜひ、みなさん、ご覧下さい。
場所:倉敷市児島下の町2-12-2
(基本的には、正面の門越しに外観だけしか、見ることは出来ません)
| 02:33 | comments(0) | - |




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