建築史 | 建築随想「仙芳丸航海日誌」
ヤマグチ建築デザイン
左官棟梁・大西喜久治
昨日、伯父夫婦から左官棟梁だった祖父・大西喜久治のことを、改めて聞きました。母方の祖父です。喜久治さんは、私が生まれる前に亡くなっていたので、父方の祖父(こちらは漁師)のようには、直接話をしたことはなく、母が間接的に語る内容でしか、喜久治さんのことを知ることはできませんでした。しかも、母は四人兄妹の末っ子だったので、接する時間が少なくて話に具体性がなく、だいたいにおいて、「これこれだった、らしいよ」みたいな語り口でした。そこに、良いタイミングで、母よりも7歳年上の伯父に話が聞けた、というのが、昨日の話です。

「左官棟梁」とは、聞き慣れない言葉かもしれませんが、蔵などの左官仕事が大部分を占める建物を作る時には、大工よりも左官の方が主導権を握り、その工事を取り仕切ることから、そのように呼ばれています。
左官棟梁ともなると、地域の主だった蔵や数奇屋造りなど、左官の技能が求められる物件を数多くこなしていたようです。塩田王の野崎家(国の重文)、下津井の荻野家(倉敷市の指定保存地区内の主要物件)など、地元の名主の家屋で仕事をしていたとのことで、叔父は写真の蔵の補修工事(建設は明治初期)の際に、この現地に手伝いに来ていたことをよく覚えているとのことでした。
久しぶりに会った伯父は、非常に熱く、そして幸せそうに語っていました。

客観性、合理性、経済性というモノサシを持つ近代社会のなかでは、仕事の仕方を身体で覚えている職人などの歴史は、顧みられることはありません。それは身体を動かすことによってしか再現不可能な技能なので、弟子入りして師に就いて教えてもらうより他はなく、それは近代モノサシである「知性」という視点からは、「見えない歴史」となっています。仮に見えたとしても、事実関係を淡々と並べるだけで、そこには、生きて汗をかいた人間の姿を見つけ出すのは、難しいのです。
それは、「産業」的ではなく、「工業」的でもありません。産業化された住宅からは、排除される部類に当たるのが、左官職人であり、左官棟梁です。「金融(保険含む)」「IT」「医薬品(医療含む)」など、「知性」によって最大化最適化されている業種には、利益配分が多く、このうちの「金融」によって、今の日本の住宅産業は、左右されるところが多いのはご存知の通りです。
特に1990年以降、近代社会の危うさを指摘する声は現代思想の分野では、数多く挙げられており、近代ヨーロッパが生み出した思考に対しては、今日では、挫折感を伴わずに語ることの方が難しくなっている昨今ですが、どうやら、日本の住まいの現状は、いまだに、近代から抜けきらず、戦後の断絶の中をさまよっているようです。

戦後日本の住宅は、工法の激変に伴い、落ち着かない出で立ちで、不釣り合いな衣裳をまとわされて、未だにそこここで建築されていますが、銀行の都合に自分たちの生活を左右されるのではなく、普通の人たちが、自分たちの住まいに満足し、幸せに暮らせることが大事であり、戦争によって断絶された建物ではなく、室町から続く日本の民家の延長にこそ、生活の知恵があり、古くて新しい発見を与えてくれるものであること、そのために、これからも全力を尽くそう、そのように感じられた伯父との時間でした。

| 01:51 | comments(0) | - |

これからの住まい;食べるためのすまい
前回は住まいは眠るためのもの、と言ったが、それは、突き詰めて行けば、眠ること以外は他者との関わりの行為であって、例えば食事にしても、今でこそ一人で食事をする人が多いが、昔は貴重な食物を皆で調理し皆で分けて食べていたことから、屋外で行なわれることも多く、眠るためだけの住まい、というのがかなり存在したということから、推論したものでした。

では、食べることについてはどうか。もう少し考えてみたい。
テレビが茶の間の主役になったのは、40年程前だろうか。それまでは、建て前であっても一家の主たる父親が食卓の中心であったはずだが、テレビの置く場所を考えた際、もっとも相応しかったのが、つい昨日まで家主が座っていた場所、もしくは方向だったようだ。その際、父親としては渋々場所を譲ったのではなくて、自分の手柄のごとく嬉々として譲ったのであろうから、この時点で、すでに、家庭内における父親の占める位置というのは、儒教などの影響の元を離れ、今日2010年代のそれに近い感覚だったのだろうと思います。

それまでは、一つの机を取り囲む「囲み型」だったが、テレビの登場により、一つの方向を皆で見る「劇場型」へと、変貌したのです。「囲み型」というものは、座る位置に上下の格付けがありつつ、且つ対等な形式でしたが、「劇場型」というのは、誰も彼も劇場たるテレビの前に同じ方向を向き均一化された者たち、つまりは視聴者であって、その違いは、端に文明の利器が家庭にやってきたという、生活が楽しくなったとか便利になったということに留まらず、家庭内の家族のあり方を大きく突き動かす存在だったのではないでしょうか。
文明の利器というものは、それ自体は熱意を持った開発者が尽力して世のため人のためと思ってつくったものでしたが、テレビが家主の権威を遂に追い落としたように、また(薪で火を起こす技術を不要とした)炊飯器が嫁姑の序列に水を差したように、人の生活というものを大きく変えて行く力を、結果として持ってしまいました。

食べるという行為は、とりわけ、夕食を食べるという行為は、昼間の活動から解き放たれた夜の時間、一日の中で一番くつろげる時間に家族皆で行なう、ある意味もっとも人間らしい行為でしょう。食卓の照明に青白い蛍光灯を使わない方が良いことは、多くの人に知られていることだけれど、炎に端を発する白熱球の放つ雰囲気というものが、囲炉裏であったり、カマドであったりする昔の感覚を呼び覚ますのであり、家族で食べることというのは、眠ることに次いで、家族が家族である所以とも言える行為でしょう。

さて、食べることが住まいで行なう第二の重要な行為である、ということをみてきたが、それはそれとして、昔の再現をしつつ現代の生活の中で楽しむ行為というのは、考えてみれば他にもあり、余暇を楽しむ山登りもそうであるし、陸上競技もそうだろう、犬や猫をペットとして飼うこともそうだろう。そのようなことは、かつて古墳時代や中世の人々がしていたことを、より洗練させて、文化的に仕立て直して、我々が行なっているに過ぎないのではないかと、食べることを考察しつつ敷衍してみた。洗練とか文化とかという言葉は、余り使いたくないが、そうであれば現代的という安易な言葉で代用させてもらうが、そういった、余分ごととも思われることを、現代の人が実感として身に迫る充足感を得るためには、できるだけ、かつて、昔の人がしていたような状況で行なうのが望ましく、そういう再現性を、住まいの中で手っ取り早く行なっているのが、「食べること」であると言えるのではないだろうか。

テレビ番組というものが軒並み求心力を失っている昨今、いっそのこと、テレビをお茶の間から押し出して、オトーさんも、オカーさんも、娘も息子も食卓に就いて、白熱球、もしくは、白熱球の雰囲気が出る代替球の照明を用意し、ロウソクの三本でも中央に立ててあげれば、もうそれだけで、中世の再現が出来上がり、即、幸せな食卓が取り戻せるという算段になる。
松下のスマートテレビCMを民放各社が全部拒否したことは象徴的だったが、実際は自分たちが箱ごと(テレビごと)全拒否されるような状勢で、ここにきて、住まいにとっての重要な「食べること」というものが、ますます、住まいの中心になってきている。そんな時代を映し出す、「食べること」に的を絞った住宅というものがあってもいい。

 
| 18:29 | comments(0) | - |

これからの住まい;眠るための住まい

建築史家の成り損ないとしては、住宅の歴史に思いを馳せて、そこから今現在の住宅を考えていくというのが正攻法で、そのためには、新しい建物も見つつ、古い建物を見て歩いたり、見るだけではなく、歴史資料を漁って、歴史の糧を身体に注入するなど、そういった試みを重ねて行って、例えば、これからは土間の家でしょう、なぜならば、、、と語るのであって、語った上で実際に作るのであって、そういうやり方が私の事務所の正々堂々とした攻め方です。

歴史に思いを馳せる等と言っても、ピンと来ない人が多いでしょうが、今では、「あ、携帯、失くした!」と大きな声で言えば、「あら、だいじょうぶー?」と周囲の人に言ってもらえるでしょうが、「あ、お米が無くなった!」といっても「じゃあ、買ってくれば?」と若干トーンの低い返事が返って来るというもので、時代が変われば共有する意識というものも変わるものなので、今のこの日本では、「携帯失くした」の方が俄然存在感がある事に気付くのです。「お子さん、だんだん食べるようになったんでしょう!?そりゃあ、お米も無くなりますって」と上沼恵美子相談員に言われそうですが、「でもね、ヤマグチさん、私この間、その携帯電話を、、、なくしちゃったのよー、もうびっくりしたわ〜。いまどき、お米よりも携帯よね。ぶーー」とも言われそうで、昭和の匂いのする彼女をしても、世の移り変わりには抗えなかったということでしょう。

時代が変われば意識が変わるという、そういう意識の違いの理由を探ってそこから、今の時代の住まいを考えていくという、一言で言えば、温故知新ですが、古い材料を使うことが、即、温故知新だと言う工務店のような安易なレベルで攻めて行っても、売り込み方がうまければそこそこ商業的には、安泰なのでしょうが、やはり、建築史家の成り損ないとしては、深入りしない程度に、こちら側に陣を取って、でも、外側ではなく、内側を見て行くというアウトサイダーの目線で、今日も建築を考えているのです。

さて、住まいとはどこから来たのか。
先人に寄れば、この問いは突き詰めて行けば、「寝る」という行為に行き着くそうで、寝るには、就寝と性交という二つの意味があり、でも、性交の方は屋外でもできるので、やはり、身体を休息させる方の寝るというのが、住まいの第一義的に必要とされた機能なのだそうです。
つまり、一個人にとって最重要な行いは「寝る」ということであり、寝るためだけの建物、というのが、昔は結構あったそうで、その場合には、食べることや水浴等というものは、屋外で行なっていたそうです。つまり、寝ること以外は、他者の視線を感じ、他者との関わりを想定した行為であり、食べることもふくめて、いわば、寝ること以外は社会的行為なのだ、ということがわかります。

かつては、「塗り籠め」と言われる、壁を土で塗り固めた小さい部屋を造って、(機能的必要から)家族みんなで、床に筵と藁を敷き詰めて(木綿が普及する前ですから)就寝用の着物を被って眠っていたようですが、寝具の発達と共に、就寝専用の部屋は無くなり、畳が一般に普及したことも相まって、今風の敷き布団と掛け布団さえあれば、どの部屋でも就寝することが出来ることになりました。つまり、寝具の普及前には、家族みんなで一つの狭い部屋に眠っていたものが、寝具の普及と共にどこででも眠れるようになり、子供と親は別の部屋、というのがやっと実現したという次第なのです。

こう考えていくと、食事をしたり、お風呂に入ったり、着替えたり、寛いだりなどという、「寝る」こと以外の住宅内のすべての行為を、共有空間で行なってもらって、家族みんなで「寝る」ことを、とても象徴的に扱った住まいのあり方というのがあり得るのではないか、という一つのスタイルが浮かび上がってくるのです。

今の日本の9割が勤め人ですが(公的統計)、職業が勤め人で家に滞在する時間は極端に少なく、家に対する要求はまさしく「就寝」という一つの行為に行き着くというひとが、世の人々の6割にも達するという統計(ヤマグチ調べ)が出ている昨今です。かつて社会学者たちは、核家族の先には疑似母子家庭があるのではないか、と三十年程前に予想したようですが、30年経った今では、男女雇用均等法という愚策によって母も働くようになり、教育の大衆化というこれまた愚作に寄って子供は学校に奪われ、住宅には子供しかおらず、いや子供も塾などで家にはおらず、そして誰もいなくなった、というのが、残念ながら、今の日本の社会であり、住まいであるといえるのではないでしょうか。

でも、最後の砦があります。そう、「寝る」ことです。一つの部屋で家族みんなが寝る、ということ。これを、最後の砦とし、家族である証しがここにあるのだ、とする住まいを造ってみても良いかもしれません。世の中が混沌とし、何が正しいものか、何が幸せなのか、考えあぐねている世界に向かって、みなさん、住まいとはこれだよ、住まいとは家族みんなで寝ることだよ、というように語り、実物の住宅として提示するのです。

| 22:43 | comments(0) | - |

歴史を取り戻す
そもそも、住宅産業、という言葉が、気に入らない。と過去に書いたが続いてそのあとに、「無理矢理「産業」にしているのがだめだよな、と思うわけです。自動車や家電のように工業化しないと世の中に出現しない代物と違い、住まいというのは、人がこの世界に生まれたそのときから、いつでも・常に・同時に・いやでも、「ある」わけで、やはり、「産業」ではなく「生活」だよな、とおもうわけです。」とも書いた。 

このように書くと、合点がいった方がいたようで、あの回は良かったよお!、と建築の友人が声を掛けてくれたことがあった。おい!君も読んでいたのか!?とそのときは思っていたが、やはり、素人には敬遠されがちで、専門家が好むコンテンツだし、さらにわたしに直接会ったことの無い人は、文体と語彙が独善的すぎる嫌いがあるために、とても付き合い難いひとのように、受け取られてもいる。

さて、建築史家を志したこともあった私としては、自分なりの温故知新の思想で現在は「行動する現場建築史研究者」を自称し、その実は、つまりは、売れない地方建築家だが、出すためには入れないと行けないという自然の法則に従い、先日は岡山県内の重要な建築物を一日で巡るツアーを敢行した。

森江家

住まいというのは、雨風寒さを凌ぐことからはじまって、寝食の場所を備えつつ人の生活に伴って工夫が施され洗練され機能が増えてオシャレのための装飾も付いたりしてくるものです。それは、なにも画一的なものではなく、お金が異常に掛かるものでもなく、ときには「結」とよばれたりする近所の人たち総出で一つの家を造ったりするという共同体を維持する側面もあるなど、頭ではなく心にとって無理の無い範囲で(言い換えると、書き言葉ではなく話し言葉で通じる人間関係の範囲で)人と人の繋がりが自然につくられていくようなものであり、人間の生活から生まれたものであります。(少し規模を拡大すると、版籍奉還や廃藩置県で無くなった幕藩体制のうちの、「藩」という規模こそ、頭ではなく心にとって無理の無い範囲で、ある一定の秩序を持った共同体がまとまって行く組織の看板だったのではないかと、最近は考えています。)

閑谷学校

今日では住宅を考えている多くの人は、住宅展示場に行くと思いますが、住宅展示場へ行くとその展示場という世界だけで住まいのすべてが説明されているような感覚を覚えます。とても巧妙な仕掛けで、ある意味それは詐欺でさえありますが、詐欺にあってしまった方々がわたしの発言を聞くと、夢物語を言っているように写るかもしれません。しかし、戦後の住宅を政策として作ってきた住宅産業というものが、そもそも異常だっただけで前回も書いたように、近年では建築本来の機能は横において他のものでアピールし始めてますが、そのアピールポイントは「以前よりもよりすばらしい住宅」というわけではなく、単に過剰設備であるだけであって、その異常な状態に対してわたしが普通のことを言い続けているだけであります。

産業ベースではなく、生活ベースというのは、言っていることは単純でそれほどパッとしません。それどころか、すこし現実からかけ離れているように感じるかもしれません。夢物語のように感じるかもしれませんが、それは日本の人たちが室町から普通に行なってきたことを踏襲しているだけであり、ましてや「抵抗」しているというよりも、ここ50年程の異常状態から普通へと正常化し、修正化しているような感覚です。歴史を取り戻そうとしているのです。

一日で国宝二つを含む文化財を巡る旅で得たものは、とくに300年を超えた江戸時代初期の古民家にふれて感銘を受けたけれど、何ごともインスタントでは作ることが出来ず、長い時間をかけて出来上がるものだと言うことです。わたしの生家が既に100年を超えているように、また、今のわたしの住まいが今年で80年を迎えるように、住宅というのは、100年くらいその場所にあるものだというのが、わたし自身の感覚ですが、その長くその場所にある住宅を造るのに、出来るだけインスタントに早く作りたい、とする産業ベースの感覚というのは、基本的にズレた感覚です。全世界で「Yes!」が「はい!」の意味だと浸透しているのと同じくらいの浸透力で、セメントや鉄筋、トタン板などの基本材料が世界中で作られ出すと、また違うのですが、基本的にはその地域風土にあった住宅を、書き言葉ではなく話し言葉でつくるかのように、造っていくというのが、後々にも残り、大切にされる住まいのような気がします。

わたしのように中座したものが言うのもなんですが、建築史研究者のひとたちは胸を張って、歴史を取り戻す作業に当たって欲しいし、逆に、ホットな話題で言えば、槙さんが安藤さんを痛烈に批判している新しいオリンピック競技場の実例にあるように、歴史を壊すものたちを殺すことにも尽力して欲しいと思います。また、同時に苦言を追加すると、その任を追いきれない人は、わたしのように中座して目の前の与えられた仕事を感謝しつつこなして、与えられた立場で社会の役に立つことです。

吉備津神社
| 13:34 | comments(0) | - |




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