倉敷建築工房 山口晋作設計室
児島中心部の都市形成の歴史を象徴する野崎浜塩田の「樋の輪」について

倉敷市児島味野には、池田輝政(の指示を受けた息子・利隆26歳)による慶長検地帳1610年に記載の「味野古塩田」(一町八反八畝八歩)が有り、今日もその形跡を残す同地区最古の入浜式塩田である。関ヶ原以後、洲脇氏が「阿津塩田(元浜)」(1656年、1669年)を、1664年に大庄屋・荻野氏の分家が味野村に塩田(五反三畝九歩)を、また清介という者が「二町四反七畝一歩」の塩田を1683年に築いた。その後も時期不明だが現在の味野中学校の敷地に荻野氏の別の分家が塩田を築き、先の分家も隣接地を塩田とするなど沿岸資源を利用した産業が興った。これらが塩田であったことは、自身も塩田事業者であった西原氏撮影の明治30年代の写真で確認できる。

このように、もともと島であった児島は山が小さく水田を維持することが困難であったため、「味野古塩田」を築いた後も遠浅の湾内を干拓して塩田開発を行いつつ、一部を綿花畑としたことで今日の「繊維業のメッカ」の発端ともなった。野崎氏は文政12年(1829年)に野崎浜を完成させたが(1828年 味野浜;三十二町二反九畝七歩・16釜屋、1829年 赤崎浜;十五町五反二十四歩・8釜屋)、この大規模開発以前から少なくとも200年以上に亘って同地区では塩田事業の経験が蓄積されていた。

 

(手前が味野古塩田、奥の土手が人工溜池、背後の山は竜王山)

(手前が溜池からの山水を排水するための人工の川、奥が人工溜池)

 

野崎氏は塩田堤防のための石を運搬しやすく身近な航路である下津井鷲羽山沿岸から採石することを備前藩から許可を得た。堤防は2種類に分けられ汐入川に面する堤防を内堤といい、海に面する堤防を外堤といった。海水の取入口且つ余剰海水の排出口である大樋は全ての堤防にあるが、大樋を波や風から守る「樋の輪」は外堤にだけ設置された。

今回取り上げる現存する唯一の「樋の輪」(幅6300,奥4300,高3000ミリ)は、野崎浜のうち味野浜の23番浜にある。これは上から見ると半円状の弧形石堤で、その石垣の厚みは頂部で1800から2100ミリであり、中央には平面寸法1500×2800の枡形状の空洞が海底まで設けられ流量調整と波の影響を減ずる工夫がある。「樋の輪」から大樋へ至る流量を決定する暗渠取入れ口の断面寸法は600×200で、暗渠外縁上部には御影石の棒状マグサ(200角断面で長1000ミリ)があった。取入れ口は海底に接する低い位置に設けられたが、これは暗渠入り口を波の影響が大きい海水面から遠ざけることで、その影響を極力減らす目的があると思われる。外堤下部には備前焼製の配管を埋設して海水を導入し、内側の溜池(ダブ)に貯水した。この旧溜池の影響で当該外堤隣接敷地(ヤマト運輸)の地盤沈下が目視できる。

 

 

さて、野崎浜は塩田であったため戦後農地改革の対象から外れたが、塩田を要さず工場内のイオン交換膜水槽によって海水中の塩分濃度を高める方式が確立したため1969年昭和44年に塩田としての利用を廃止した。その4年後1973年10月に瀬戸大橋の工事実施計画が当時の建設・運輸省の両大臣から本四公団に対して認可され、鉄道駅の建設と新たな都市計画がスタートし今日に至る。

味野には1896年明治18年から1929年大正15年(昭和1年)まで児島郡庁舎が置かれ既に県南主要都市であったが、昭和4年から(児島の他集落より20年も早く)整備された水道網のお陰で元塩田群においての都市活動がさらに活発になり、1965年昭和40年国勢調査では県下3番目の人口を擁する児島市として活躍するに至った。

「味野古塩田」を起点とする元塩田群は、利用しやすい平らな土地に転用されて400年以上の都市活動が継続され、この場所が児島地区の中心地となった。今日、野崎浜を歩いてみても、200年前に塩田として作られたことが確認できる痕跡は皆無であり、この大樋を保護するために積み上げた石造りの「樋の輪」のみが塩田であったことの証左となっている。「樋の輪」は児島中心部の都市形成を象徴する建造物である。

 

 

 

 

【参考文献】

  • 岡山県『岡山県の歴史』日本文教出版、1957年、p381
  • 角田直一『児島塩業史年表』財団法人竜王会館、1990年
  • 岡山大学図書館『岡山大学所蔵 近世庶民資料目録 第3巻』岡山大学、1974年、pp9-97
  • 児島郡教育会編『児島郡史』児島郡役所、1915年、p27
  • ナイカイ塩業『備前児島 野崎家の研究』財団法人竜王会館、1981年、p101
  • 西原氏撮影(個人蔵)『児島郡味野町の日常写真』、明治30年代と推定
  • 角田直一『元野崎浜風土記』財団法人竜王会館、1985年
  • 本州四国連絡橋公団第二建設局『本州四国連絡橋 児島坂出ルート』財団法人海洋架橋調査会、1988、p303
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なぜ歴史を紐解くのか、それは現代に生かせる視点が手に入るから

児島中心部、味野赤崎小川地区の塩田の成り立ちについて別稿で進めているけれども、実はもう調べ物は全て終わっていて、あとは他者に見て頂くために整理してお知らせするのみとなっていて、当事者の気分的には早く結論を書きたいところだし、読む方もなんでこんなことを長々と書いているん?、ちょい、長いよ。と思っているだろうから、先に結論を書くことにした。

 

元々、高専土木科の学生の頃から都市計画や土木史には親しんでいたし、大学では(建築に全振りしたものの)建設史研究室に在籍してこともあって(土木と建築の歴史を扱う研究室だった)、たまに気になる「まち系」の書物は時々購入していた。2年ほど前か、『スケール』(ジョフリー・ウェスト著、山形浩生訳)を読んで、物理学と生物学、そして数学を都市の成り立ちに適用してみたら、まあまあ適切に説明ができることを知り興奮したものだが、そこでは、都市が一つの生き物のような側面があることが描かれていて、感銘を受けた。

 

児島という街が、元気がなくなり、どんどんと人口が減っていることに対して、地域に住む建築の専門家として何かしらの視点を提示できないだろうかと、思っていたところ、友人知人から、「児島はなぜ海を生かしたまちづくりができていないのか、こんなにも穏やかな海があるのに」との意見が以前から複数寄せられていたことを思い出し、児島の中心部に住む一人として、これは一つのテーマになりうるな、と考えついたのが、今回の塩田の歴史に進んだ契機だった。

 

(琴浦、松島、松島)

 

初めは、野崎浜塩田が200年前(1829年)に作られたから、児島の人たちは、山際、つまりはかつての海岸線よりも山側に住むほとんどの住民にとっては、自分達の集落から一キロくらい先に海があり、海といえば、海水を引き込んだ塩田で塩を作る巨大な工場のようなものだとの意識が強かったからに違いないから、200年それが続けば、やっぱり海が与えてくれる豊かさの意味を忘れますよねー、という仮説を持っていた。90歳のお爺さんに聞いても、子供の時から塩田しか見えんかった、というだろうな、海を知らないからな、という感じだ。

しかしながら、先に別稿で書いたように、200年どころではなく、400年前から少しづつ塩田が作られていったことが分かり(慶長1610年の検地で味野古塩田が確認されている)、かなり長きに亘って、児島の人たちは海から離れた生活をしていたのだということに気がついた。

 

これはどういうことか。これは何を意味するのか。

これは、都市の近代化が早々とやってきた、ということを意味する。明治以降にスタートする近代社会は、近世においての下地造りが充分になされた地域から順々に始まっていったという世界各国の事例がある。

児島味野には、1885年明治18年から1925年大正15年に期間40年間に亘り、(味野小学校のすぐ前に)児島郡(かつての離島としての児島がその範囲)の役所が置かれていたことから、岡山県南部の中心都市であったことがわかるし、(大正年間から東高梁川を埋めてさらに海を干拓して)戦後のコンビナート建設に伴って誕生した人工都市水島地区ができるまでは、岡山県下で3番目の都市であった(1965年国勢調査、岡山倉敷児島という順番だった)。塩田による製塩業を基幹産業としていた江戸時代後半からは、並行して塩田に適さない土地に綿花を栽培して、倉紡に先立って下村紡績(1882年明治15年)は出来ていたし、紡績・縫製を筆頭にして(明治29年1896年には味野紡績設立)、周辺産業が育っていったのが、児島地区だった。児島の発展には、海運流通の要衝となっていた隣町の下津井の存在はもちろん大きく、1750年から1950年の200年ほどの期間における下津井は、備前藩の玄関口であり港町というか港湾都市として都市化が進んだ土地だった。

こういった歴史を紐解くことは、現代に生かせる視点を獲得することにつながる。

 

(野崎浜灯台、高室、旧海技大学校)

 

古民家の再生の場合には、古民家に秘められた「かつての暮らしの知恵」を見出した上で、それを現代の生活にマッチするように、設計することが求められる。つまり、高みの見物のように、単なるウンチクの如く、これはコレコレの価値があってとても重要なものです、とコメントだけすれば良いというのでなく(そういえば、現在の倉敷民芸館がこれになってしまっている)、実際の生活の中での価値を日々の生活で感じられるように施主に対して提供しなければならなくて、これを毎回やっているのが、僕の本業だ。これができないと、本当に意味をなさい。今年の春で古民家の再生の設計に携わるようになって、20年が経ったが、これができないと全くもって、役足たずとなる。社会的に存在意義がなくなる。設計監理料を払ってもらえない。

地域の古い昔話を発掘して「地域おこし」に生かすというのは全国でなされている事だけれど、これは真実だけど、どの地域であっても、昔の庄屋の蔵からは江戸時代の古文書は出てくるし、少し地面を掘ればそこら中で弥生や縄文の土器や貝塚は出てくるものなのだから、とても重要なのは、ーーなんども言うが、これはとても大事なのだがーー、その出て来たモノたちが、現在を生きる我々の日常生活にどのような意味があるのか、史料や埋蔵文化財たちが何を教えてくれるのか、ということであって、出て来たものを現代の日常生活に役立つよう翻訳して解説するというのが、この生きにくい時代において、価値観が多様になり社会と自分との関係に悩む日々の多い現代人にとって、もっとも求められていることだろうと思う。そう、ちょうど古民家再生の設計監理をするように。

 

かつては、どうやって生きていけば良いのか、という人生の見取り図的なものが社会の中で共有されているイメージが割と明確にあった、逆にいうと疑問を挟む余地が少なかったのが過去の時代だった。過去というのは明治の中頃から25年以上前バブル期以前の時代の100年余りの間のことだ。そういう時代には、限定された範囲の中でルールに基づいて頑張ればよかった。しかし現代は違う。現代は皆とても悩みながら日々を過ごしている。社会と自分との関係は一体そもそもどうあるべきか、家族と自分との関係、そして仕事と自分との関係、政治と自分との関係は一体どうあるべきかという根本的な部分が混乱しているのが、現代だ。

今回のような、地域史を振り返って郷土史家の助手のような仕事は、まさにこのためであって、この地域の特性を知り、この地域を理解するための視点・観点を増やしていき、将来の発展のためのヒントを準備したいと思っているからだ。一般論として、何かが行き詰まっていて見通しが立たず、先行き不透明な状態というのは、選択肢が限られていて、考え方の幅が狭くなっているからであって、同じ事象であっても、いろんな視点を持てるようになると、視界が開けてくる。それが歴史を知る意義だし、広く言うと教養を学ぶ意味だ。

 

 

まとめよう。

児島の場合には、(備中高松城水攻めの戦いの堤防技術を援用して)江戸の始まりから海岸線を埋め立てて、海水引き込み、塩田において製塩することが主な産業となった。塩は言うまでもなく、人間の身体にとって欠かすことのできない重要なもので、加工品である味噌や醤油、野菜や魚などの保存食にも必ずいるものだ。かつての離島としての児島よりも北に位置する地域が干拓された時には、塩田ではなく、水田が作られていったが、これは山からの水を管理された水路から引き入れて、米を作るものだった。児島の南側は現在の玉野市に至るまで塩田が作られた。北は水田で南は塩田。

最初の200年は、(紀州藩熊野生まれで)阿津の富田屋洲脇家と味野の下肝煎新屋荻野家の功績により塩田が作られ、次の200年では、それを発展させた野崎家の尽力があり、児島半島の南側、現在の水島から玉野にかけて干拓がなされ、児島では、現在の児島駅周辺の平野が200年前の野崎浜塩田に該当する。この地区が近年倉敷市都市計画課が児島の中心市街地として選定している地区だ(コンパクトシティに基づいた立地適正化計画)。

 

産業革命以後の産業というのは、盛衰のサイクルが短いという特性がある。短い期間で利益が出るけれど長くは続かないということだ。一方、それ以前の産業というのは、大儲けはできないが、じっくりと時間をかけてジワジワと豊かさを提供してくれるものだ。下津井の漁業自体は復興できる見込みは薄いが、ただで手に入る瀬戸内海をネタにした産業を今後の児島地区中心部の展望として掲げるのは、とても現実的だと思う。児島駅周辺と児島駅から海側に広がる地区において、なんなら、もう少しだけ埋め立て範囲を拡張した上で!、大畠で作ったような養殖場と釣り公園、そして砂浜が整備されたならば、レジャーとしての側面も加わり、単なる商業活動だけではなく、穏やかな感情を与えてくれる児島の海を味わってもらうという、モノではなくコトを、モノではなく時間を、この生きづらい現代に海由来の穏やかさという感情を、提供できるような街に作り替えていくことができるのではないだろうか。ヨーロッパ人がバカンスで訪れるような港町は、皆その性格を備えている。

 

400年以上に亘って、海を忘れてきた児島地区の中心部の人たちは、(現在も海を身近に感じている)唐琴と下津井の人たちに学びつつ、新たな街の姿を「海を生かしたまちづくり」に据えてみてはどうだろうか。唐琴と下津井でたまに「なんとかマルシェ」なるものが開催されているのは、その土地の魅力が売り出せる資源として注目されているからだろう。まだまだ人口が増えていた時代に学生服からジーンズに業務転換できた状況とは違い、繊維産業は先細るのは目に見えている。広島都市圏よりも岡山都市圏の方が大きくなっているとは言え、児島地区は東西の交通網からは外れていてあくまでも郊外であり周辺都市でしかない中で、児島の地域特性に裏打ちされた新たな産業というものも育っている雰囲気はない。都市を一つの生物だとすると、食べる食べ物を少し変えて身体の構成成分を変化させるタイミングなのだろうと思う。産業革命以後の産業に頼り続けるのではなく、それ以前からある瀬戸内海に目を向けて、そう、海に背を向けてミシンを踏み続けるのではなく、ミシンを捨てて広くなった縫製工場を拠点にして、海に向かい合っては如何だろうか。海を生かしたまちづくり、これが一つの選択肢だと思う。

 

(松島、松島、久須美の鼻)

 

 

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味野塩田の400年を歩く(2)

古民家の再生というのは、古民家に秘められた「かつての暮らしの知恵」を見出した上で、それを現代の生活にマッチするように、設計することを意味する。高みの見物のように、単なるウンチクの如く、これは価値があってとても重要なものです、とコメントだけすれば良いというのでなく、実際の生活の中での価値を施主に対して提供しなければならなくて、これを毎回やっているのが、僕の仕事だ。

そんな感覚で、つまり住宅という生活の器を成り立たせているさまざまな前提条件・高位条件を、住宅周辺のコト・モノを現実の生活に定着させて回して行くという興味でネットパトロールをしていると、ここ最近、日本社会のロジ・運営・段取り・環境整備が、とても貧しくなっている事を痛感する。行政が住民に振り込む金額を大きく間違えました、電気需要が増大して発電所がパンクするので今夏は節電して下さい、ワクチン接種者を未接種者としてカウントしてました、アメリカ政府が言うには日本は情報管理ができないので重要な事を教えられません、などは記憶に新しいニュースだった。

もっとも、家事を一切しない人の方が、要求水準が高い傾向がある、という一般論も妥当性があり、あらゆる業務は関係者の不断の努力によってぎりぎり成り立っている、という指摘も大事ではあるけれども、最近の「ロジ失態」は余りにも通常業務が出来て無さすぎて、水準が低いとかという以前の問題であり、もしかすると、それらの事を日常生活への定着を求めるこちら側の方が少し厳しい見方なのかもしれない、とさえ思えてくる。

 

さて、本論に戻ろう。

江戸時代に入って、前代の戦国時代に準備された堤防技術が、フル活用されて、現在の岡山平野と言われている平坦な土地が整備された。この島としての離島としての児島の北側を干拓した場合は水田が整備され、山からの雨水を効率よく引き込む土木事業が実施された。一方、児島の南側、海側の場合には(山が小さく雨量も少ないので水田ではなく)塩田が整備されて、海からの水を効率よく引き込む土木事業が実施された(山側と海側に挟まれた中途半端な場所は、綿花栽培に行ったようだ)。前回の味野古塩田は、港を作る要領で堤防を築き、堤防の頂部には山からの雨水を海に流す水路が作られていて、厳密に区別すれば、海を干拓した塩田とは違い、当時の土木技術により整備された塩田だったということができる。

 

今回は児島で2番目に作られた塩田、紀州熊野藩の出身で阿津に居を移した富田屋洲脇氏が作った阿津の古塩田についてだ。

 

富田屋は1632年に赤崎の阿津に居を移した。紀州の出身であったが関ヶ原の戦いに西軍として参戦した際に敗れた後に、熊本の細川氏を頼って暫く熊本に住んだ後に備前藩児島に来たようだ。なぜ児島だったのかは文献に記載がない。西軍の大将格であった宇喜多氏に親近感を抱いて備前児島だったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

図にあるように、洲脇氏は2回に分けて干拓を施している。

下津井電鉄の旧阿津駅の目の前に1656年に完成した塩田は、前回の味野古塩田(1610年慶長検地)とは違い、遠浅の海に締切堤防を張り巡らせた後、海に土砂を投入して埋め立てたもので、この方式は200年近く後に完成する野崎浜塩田と同じ方式となる。洲脇氏の塩田も野崎浜塩田も、東以外は山に囲われているこの湾の特性を生かしたもので(南の山を一山越えたところに位置し)、今日でも潮の流れの早い下津井沖とは違って、波が穏やかで砂が溜まりやすい形状の半島の特性を生かして、比較的干拓が容易な区域になっている。満潮時の塩の取り入れ口(樋の輪)は、小さい岬(向山)の麓にあり、雨水が混ざりにくく塩分濃度の高い海水を取り込むことのできる場所に位置している。

 

この頃の江戸初期の塩田は、米の収穫を期待した「水田」を作れる条件に叶わない土地において、1)綿花の栽培をするか、2)塩田をするか、の二択の中で、綿花栽培ではなく、塩田を作ることを選択した場所で、野崎家が後に行ったような大規模事業ではなく、あくまでも補助的な事業であった。実際、綿花栽培においても備前藩は日本全国に先駆けて、1686年に「綿の専売制」の制度をスタートしたほどの地域であり、海水域の活用方法としての、1)綿花、2)塩田、3)水田の三つを、干拓ブームが最盛期となっていた江戸初期の備前藩と備中藩が推し進め、今日に言うところの「岡山平野」と、児島半島南部の三つの市街地(水島、児島、玉野)の形成に至ったことは注目すべきだと思う。より説得力のあるデータとしては、過去2回の国勢調査を分析してみると、広島都市圏よりも岡山倉敷都市圏の方が、大きくなっており、この江戸初期の「岡山干拓ブーム」が今日の岡山倉敷地域の発展に大貢献していることは、感慨深いものです。

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味野塩田の400年を歩く(1)

児島が海を生かした都市形成ができなかったのは何故なのか。という疑問をこの20年くらいずっと抱いていた。

長い学生時代を終えて20年前に倉敷に帰ってきて以来、児島に行く度にそんな印象を抱いていたし(当時は倉敷中心部に住んでた)、外から友人を招いた時や、倉敷で児島の街の話題を話すときには必ず話題にされることだった。ちなみに、倉敷の人の感覚を喩えで説明すると、児島の人が下津井に対して抱くイメージと、倉敷の人が児島に対して抱くイメージが相似していて、下津井生活歴20年の僕としては、聞いていて誠に微笑ましく感じている。

 

さて、何故なのか。

下津井で20年暮らした僕としては、(朝鮮に行き来していた戦前とは違い)戦後は瀬戸内に育っている高付加価値の魚介類を生業としていた家に生まれた僕としては、海の豊かさは当たり前のように感じていたから、「当たり前だから意識できなかったのではないか」という「アタリマエ説」だろうと素朴に感じていたが、建築史を専攻していた学生時代の資産である文献調査とフィールドワークという武器を本業の脇で駆使した結果、どうやら「アタリマエ説」ではなく、そもそも「海を知らないから海を活かせないのではないか」という「シラナイ説」という仮説が有力になってきた。

 

「アタリマエ説」というのは、僕のような下津井に生まれた者や唐琴(旧地名;引網)に生まれた者のように、家の目の前に海があり、海と共に生活が成り立っていた港湾都市もしくは港町での生活者が抱く感覚で、コンクリートではなく自然の海岸線の岩や砂浜に波が打ち当たり、生物の宝庫となっている情景を原風景としている人たちが抱く感覚だ。庶民生活の点だけではなく、文物の交流の点で話すと、海運の時代が遠のいてしまったからなかなか実感を持って現代人は把握しにくいから、現在の倉敷駅が果たしている役割を備前藩時代の下津井が担っていたといえば、なんとなく想像できるだろうか、港湾都市とはそういうものだった。そういう状況の中で、海があるのは当たり前だから、客観的に海を意識できない、という説が、「アタリマエ説」。

 

その一方、「シラナイ説」というのは、自分たちの生活と海という巨大な生態系にはなんの関係もなくて、そこは「仕事をする場所」だという感覚のこと。塩田開発と同時に江戸直前から始まっていた新田開発によって生まれた街、たとえば倉敷市役所の南にあるその名も「倉敷市新田」と呼ばれる地区、また山を越えて南にある「倉敷市福田町古新田」という地区に住む人たちが抱くような感覚と似ていて、塩田や水田というのは「仕事をする場所」であり、山から流れてくる水を使うのが水田で、海から流れてくる水を使うのが塩田という違いはあるものの、共通するのは全体のうちの一部分を仕事のために使っているという点であり、ほんらい山や海という強大な生態系が持っている豊かな自然が自分達の生活の全てを、本当に全てを賄ってくれているという実感を持ちにくい立場の人たちの感覚を言う。

自分たちの住んでいる集落の前面には塩田があり、塩田は(備中高松城水攻めの際に宇喜多家が作った巨大な堤防の技術を援用した)防波堤で守られており、その向こうに「塩田に水を引き入れるための海」があるという感覚しか持ち得ない。仕事のために海水を使っているに過ぎない、という状況が長い間続いていくと、全体としての海の豊かさを知らないから、海を活かした都市形成ができなかったのではないか、という説。これが「シラナイ説」。

 

この地域の歴史を知る上での文献といえば、下津井の先輩である角田直一先生や(中学時代の校長だった)山本慶一先生が書いた著書が筆頭であり、その他としては琴浦地区の歴史を紡いだ多和和彦さんや、以上3人の先輩の研究を受けて児島各地を歩き尽くした大谷壽文さんがおられて、(全て故人だが)彼ら先人が書いたもの以上のものは現在に至るまで現れていない。そういう状況の中で、都市形成についての調べ物をしていると、やはり角田先生の著書に行きあたった(注1)。塩田王・野崎武左衛門を父祖とする「財団法人 竜王会館」からの依頼により、角田先生は1990年平成2年に『児島塩業史年表』を著した。それを読むまでは、僕も一般人と同じ認識で、児島の塩田というのは、野崎武左衛門が200年前の1829年に大規模に干拓して造成した塩田のことであり、現在90歳のおじいさんにとってみても、児島の海というのは、野崎浜塩田の向こうにあるものだ、と答えるだろうなあ、という認識だった。

 

 

(中央に1615年に確認されている味野古塩田。紫の大丸は江戸初期からの庄屋(下肝煎;新屋荻野家)。オレンジの丸は明治以降の役場と小学校。地図の右が北)

 

 

でも、違ったのだった。

かなり昔、鷲羽山の山の上に現在もある古墳の主である豪族(7世紀の豪族;彼らは大畠に遺跡がありそこで作った塩を朝廷に献上していた)は、陶器で海水を沸騰して作った塩を大量生産していたが、中世後半(鎌倉以降か?)においてはその製法が変わり、綺麗な砂を満潮時の潮位より少し下に水平に敷き詰めて、その状態を作ったのちに、満潮時の海水を引き込んで砂と共に海水を自然に乾燥させるという入浜式の製塩方式が、16世紀はじめ、江戸が始まった慶長検地の際に児島味野で確認されている。

つまり、200年ではなくて、400年前から塩田があり、児島味野の人にとってみれば、自分達の家の前に塩田があり、その塩田の向こうに海がある、という状況が400年間続いているということだったのだ。


 

(右の水路は、山からの水が塩田に入らないように、海へと送る排水路。この水路の源には溜池があり目の前に神社がある。写真は東から西を撮影)

 

 

郷土史家の皆さんの文章を読んでいると、どこどこに何々が「いくらいくら」あった、という記述が多い。今回の例でいうと、1615年慶長検地の際、児島味野村に「一町八反五畝八歩」の塩田があった、と記述されている。中学を出て以来、土木と建築を学んできた身としては、どのくらいの面積で、どこにあったのか、という点が非常に興味が湧くことなんだけれど、郷土史家の先生方はそれを表現できていない。しかしながら、行政の公開情報(注2)と県立市立図書館や全国の古本屋の応援のお陰で、2022年の僕に与えられた立場で持てる技術を駆使して慎重に確認してみたら、事務所のすぐ近く(歩いて70秒!)にある古い田圃の跡地がこの面積(18,341平米)にピッタリ合致したのだ。

 

 

 

(左の少し低い土地が、児島味野の慶長塩田。溜池は左上にあるが現在は半分埋め立てて消防機庫と物見の櫓、そして公園がある。写真は南から北を撮影)

 

下津井にも塩田があったと今回の調べ物で知ったけれど(古下津井の区画整理が実施された区域)、そこは山からの水がうまく制御できないために、塩田ではなくて田んぼに変えたとあった。この写真のように、味野古塩田においては、山からの水が塩田に入らないように、海へと送る排水路を設けていて、水路の上には、溜池があり、一定量の水が(たとえ台風のような大雨であっても)計画的に排水されるような土木工事がなされている。

 

郷土史家の先輩方は、江戸の古文書が読めるかもしれないが、地理学的土木建築学的な素養が薄いので、文字で表現できたとしても、図で表現できないために、現代の読者への訴求力がどうしても弱くなってしまう。

これに気づいたとき、郷土史家の助手になれるかもしれない、と思った。郷土史家にはなれないけれども、助手にはなれる。

 

この後、何回かに分けて、児島味野を中心とする塩田開拓の郷土史を地図で表現してみたい。その上で、400年前から児島味野の人たちが、海を知らなかったことを確認したい。

 

(児島味野赤崎小川の地図。白色の分が中世までの陸地、薄い黄緑色が江戸直前までの陸地。黄色の丸は神社。紺色表示は溜池とそこから海へ伸びる水路。太い点線は1914大正3年に完成した下津井電鉄の線路。方角は右が北)

 

 

注1)

角田先生は旧制高校を経て京都大学法学部卒で非常に優秀な方で、悔しいけれど角田先生が全てを本当に全てを洗いざらい調べてしまったので、児島の歴史についてこれから新たな知見が得られることはないだろう。あるとすれば、江戸が始まって間も無く1688年から大庄屋・下肝煎(備前藩行政組織にとってのローカル機関を兼ねている)として明治に至るまで町長さん的立場でこの地域を治めていた新屋荻野家が残している「児島味野 荻野家文書」が岡山大学図書館にあり、その江戸初期からの古文書を丹念に解読することから生まれるものに、期待したい。

児島味野の歴史はこの大庄屋である新屋荻野家が残した文書が大部分を担っており、江戸後半に新興商人として勃興した野崎武左衛門の仕事が示している野崎家文書は、彼の家の商業的側面が中心であるので、野崎家に現在も眠っている文書を紐解いたとしても町の動きは見えてこないだろう。

 

注2)

溜池(現況図);http://www.gis.pref.okayama.jp/kurashiki/Portal

水路(現況図);http://153.126.164.193/dataeye-dashboard/html/dashboard/suiro.html

航空写真(戦後米軍撮影写真);https://mapps.gsi.go.jp

古地図(明治43年大正14年国土地理院);https://mapps.gsi.go.jp

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上田篤先生と小豆島神社巡り

Amazonの快進撃が止まらない。「ジョブズ効果」が薄らいでいるアップルを追い抜いて、今年の終わり頃には、「1兆ドル(112兆円)」の時価総額に達する模様だ。この間のニュースで読んだ。「大量消費大量生産」によって作られた製品を売りさばくというのは、かつてのように、人口が増えて消費も拡大するというベースの上で成り立っていただけではなく、右肩下がりの昨今の日本社会情勢の中においても、その勢いは止まらず、むしろ無駄がなくなり洗練されてさえいる。Amazonだけでなく、日本にある資本力のある会社が、地方に店舗を構えて、構えずとも通販でじゃんじゃん取引を拡大しているのは、生活者の肌感覚として、実感するところだと思う。その多くの会社は、各種の批判をかわすために、社会活動をしたり、原材料を「環境的に」吟味したりと、広告代理店の力も借りて(中には、ただ有名なタレントと目に麗しいパッケージを使うだけという「ボロいCM」もあるが)消費者にイメージアップを図っていて、それは結構成功している。庶民にとってみれば、環境や人権を考えていないとする「大量消費大量生産社会」への批判を考慮した「消費行動」を自分がとっているのだ、という他者へのアリバイ作りもできるので、好都合という訳だ。20世紀的消費社会に対しては多くの批判があるにも関わらず、その仕組みの「中の人たち」も頭では分かっているにも関わらず、指摘されて以降、数十年が経つにも関わらず、未だにその勢いが止まらないということは、人の欲求がソレ(便利で早いことが豊かだ、という「価値観」)を求めているのであって、それこそが自然な姿であるので、もうこのまんまで全然いいんじゃないの、という見方も強い。

 

もう随分前から、20世紀的消費社会に対して、消費することが良い事だという概念について、色々な分野で反対意見が提出されている。「消費」の代わりに、「所有賛美社会」とか「経済原理主導社会」というワードも入れ替え可能だ。環境に悪い、人権を軽んじている、健康に悪すぎる、コミニュティが崩壊する、職人仕事が廃れる、そもそも捨てるほどにモノが溢れすぎているのではないか、などなど批判は際限がありません(今日の朝、ファッションブランド「バーバリー」が売れ残り大量廃棄を中止するというニュースが飛び込んできた)。大量消費大量生産とは、原価率を抑えつつ大量にモノを作って、それを売り、利益を確保して、労働者も資本家も豊かになれて、それを受け取る社会は便利になって行く(便利、には「早い」も含まれる)、というアレです。それを繰り返す事で、経済は広がり人々の生活は豊かになって行く、というものです。資本主義経済は拡大し続ける事で継続できる、とエライ人が書いていましたが、その核にある価値観、すなわち、「より豊かに、より便利に、より早く、というものが幸せを運んでくる」という価値観を、変更しないままで、環境・人権・健康・コミニュティなどを考慮した「目に麗しい商品」を作っていても、元の木阿弥なのだろうと、私は考えています。ポイントは、価値観の吟味でしょう。

(小豆島亀山八幡宮「池田の桟敷(御旅所)」にて、右端が上田篤先生)

 

少し前のこと、建築史家で日本文化論にも造詣の深い上田篤先生の『縄文人に学ぶ』(新潮新書、2013)に感銘を受けて、人生のうちでも数少なく、滅多に実行しない「勝手に<読者ハガキ>」を手書きで書いて送りました(今までに送ったのは、20年くらい前、故前川道郎先生と香山壽夫先生で、前川先生には大阪産業大学でお会いして励ましを頂いたことでした、ああ、懐かしい)。あれは確か、春先のことです。その後、なんと御本人から電話があり、小豆島に行くので、君も来ないかとのお誘いを受け、五月の末に行って来ました。上田先生と言えば、大阪万博のお祭り広場を、京大の西山夘三(公団住宅の基本形を考えた人として有名。過去記事参照「西山夘三というアシカセ」)の下で担当し(当時は、京大から二人、東大から二人が関わっていたようです、東大の丹下健三の下には磯崎新)、近所の「橋の博物館」(現・児島市民交流センター)を設計者した人でもあります。

(池田の桟敷にて、右端は田中充子先生)

 

上田先生は、縄文時代の人々の暮らしを探ることが、現代人の価値観の再設定に繋がるのではないか、として、最近では、建築を飛び出して、周辺分野の諸研究を統合した「上田縄文学」「縄文から考える日本人論」を繰り出しています。初めての職場(建設省)で「多摩ニュータウン」の企画をし、京大に移った後には「大阪万博」の準備に携わった御年88歳の先生の言葉は、高度経済成長のなんたるかを骨身に沁みた状態で、発せられるもので、その辺にいる老学者では届き得ない飛距離を持ったものでした。

先生は、縄文時代(とその前の「先土器時代」)には、定住することが一般的ではなく、特に男性は、あちこちに出掛けて行く社会であって、女性が家の主人である「母系制社会」「女の時代」であっただろうとします。天候を司る太陽の動きを見定めた女性たちは、各種の木ノ実が熟する時節を知り、魚が来訪する時期を暦を知ることによって、その採集の確実性の精度を高めていった。ここに「旬を食べる」という和食文化の根幹は、縄文にあったはずだとします。これは、「個人の嗜好を大切にする欧米の食と、自然の恵みを味わう日本の食との違い、言い換えると、<個人主義社会>と<自然主義社会>の差異」であろう、としています。

また、上田先生は言います。建前上、日本人がみな父方の姓を持ち男性はみな職業を持つなど、極めて父系制的で、制度的には「父系」であっても、社会的には今だに「母系」の強い社会となっている。ここから「母」とは何かという点を、河合隼雄の「父性原理」「母性原理」に照らし合わせて(「父性原理」は「良い子だけが我が子」、「母性原理」は「我が子は全て良い子」とするもの)、父系原理が支配する社会では、「人々の競争が激しくなって、確かに社会は進歩するが、弱者は切り捨てられる」、母系原理が優先する社会では、「平等を旨とするから、人々の競争はおきず、従って社会も進歩しないが、ために弱者の切り捨て、抗争、戦争、環境問題の激化などを引き起こさない」だろうとしています。

(中山農村歌舞伎舞台と上田先生)

 

便利で早いことがお金を生み、それが正しいとされる大量消費大量生産の時代概念に対抗するには、「菊と刀」に代表されるような幾多の日本人論では、広く社会へ向かって提案できる仮説は立てることができず、いまの社会のベースとなった縄文文化を探ることが近道であろう、と上田先生は考えたようです。個人の欲求を優先するのではなく、奥深い自然の営みに従った「自然主義社会」や、「我が子はみな良い子」とする母性原理などを包括する縄文文化を探る試みこそが、幾多の弊害を及ぼしている現代社会に対して、効果があるだろう、とのことです。上田先生は、日本はもちろん、世界各地の原始的な住まいの造りを調べつつ、論を進めていて、今回の「小豆島神社めぐり<御旅所特集>」は、その手がかりとしての事前調査でした。

この旅に同行しながら、この数年、下津井の路地を歩きながら、思索していることも、同じようなアプローチだと気づかされました。次回の「建築史」カテゴリーでは、路地歩きの論点をまとめようと思います。

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