建築史 | 建築随想「仙芳丸航海日誌」
ヤマグチ建築デザイン
近代日本建築史における「古民家再生工房」

<現代社会の残念なところ;住んではいるけど、暮らしていない>

住まいとは、なんでしょうか。日々の暮らしを落ち着いて過ごすための「巣」であり「砦」でしょうし「寝床」であります。それと同じように大事なものが、周りの人との関係です。現代社会生活の「もどかしさ」を現す言葉として、「住んではいるけど、暮らしていない」という言葉があります。「暮らし」を豊かにするのは、住んでいる地域においての「人との関わり」であり「モノやカネの循環」です。かつては、自分の集落(「大字」くらいの規模)の中だけで、その二つが巡っていましたが、今では、世界を相手にそれをやっているので、児島に住んでいても、イオンやアマゾンで買い物をするし、周り近所の人たちとの関係は益々薄まっています。平日は、朝と夜しか家におらず、休みの日には、遠くに遊びに行き、地元を見下して、児島には何もないし、岡山はダメな街だ。という事になります(児島は県内で5番目の都市でそれなりの規模の街ですから、そんなにダメとも思いませんし、私なんかはとても素敵な街だと実感しています。ダメだと感じるのは、もしかしたら、それはセルフイメージと重なるのかもしれません)。そういう状態を「住んではいるけど、暮らしていない」といいます。「砦」である住まいから出て行って、最近流行りの「なんとかマルシェ」に通うのは、そういった「乾き」を受け止めてくれるからです。街の暮らしを豊かにするのは、地元に住んでいる人たちが自らのお店を切り盛りした店に通い、顔を見ながら、買い物をするという状況で、こういう方面が重要だということで、最近では「地方創生」などと、叫ばれていたりします。

 

(児島マルシェ;会場配置計画を担当)

 

<日本の住まい史は「縄文(弥生)+江戸」だけ>

歴史の中で華々しい扱いを受ける建物というのは、権力者の建物であり、我々庶民とはあまり関係のない世界です。『日本建築史図集』(彰国社)のほとんどは、仏教建築であり、日本建築史とは、仏教建築様式史でしかないものです(ヨーロッパだと、教会建築史、となります)。住まいの歴史だけに注目すると、日本の住まいは、縄文の住まい、弥生の住まい、そして、江戸の住まい、くらいしか、世の中にはありません。戦後の焼け野原を立て直すためにプレハブ住宅が試みられましたが、70年の歴史を重ねながら、今だに「供給側の論理」でしか、住まいを考えておらず、蹴ったら壊れるようなボロい住宅ばかりが作られており、日本の風景を壊し続けています(住宅産業のダメさ加減については、こちらのリンクを参照してください脱産業生活由来型建築論考集・全24項)。

 

<茅葺民家は、「縄文+弥生」>

岡山県の県北・新庄村まで行くのに、高速ではなくて、下道を走ると、茅葺き屋根を鉄板で覆った家々をたくさん見かけます。岡山県以外でも、おそらくそうでしょうけれど、2020年が来ようとしている現在でも、相当な数の「生き残り」が、棲息していることになます。なんの「生き残り」かというと、産業革命に端を発する近代文明が日本を覆い尽くす前の時代、近代が日本にくる前の時代の「生き残り」です。茅葺屋根の住宅の代表選手は、「箱木千年家」(過去の遺産へリンク)ですが、これを見てよくわかるように、地面から三角屋根が生えている竪穴式住居に追加されたのは「背の低い壁」と室内の「木の床」です(これらは、弥生の住まいの特徴です)。そういう目でみると、茅葺き屋根の住宅というのは、縄文時代の住まいに毛が生えた程度の住宅と言えるでしょう。

 

(箱木千年家 外観)

 

(箱木千年家 内観)

 

そして、どうやら、戦前の東北においては、岡山の「茅葺き屋根住宅」くらいの存在確率で「竪穴式住居」が存在していたというから、山川の教科書が、縄文時代の「タグ付け」として「竪穴式住居」を使うのは、あまり、有効でないように思います。地面に穴を深く掘って、「凍結深度」より深く掘り込み、日々の生活に地熱を利用した竪穴式住居は、寒い地域である東北以北で、ワンサとあったようです(私の事務所が東北以北にあれば、新築であっても必ず地面を掘っていたでしょう)。今でこそ、住宅の床は、地面から60センチほど上げることになっていますが(しかも法律で決めてまで)、室町から江戸になって、上がり始めた床が、地面から全部上がりきったのは、ついこの間、戦後のことで、戦前までは、「縄文時代の住まいに毛が生えた程度の住宅」が、そこら中にあったことになります。

 

<古民家再生は、縄文とモダンの衝突>

「古民家再生工房」がやったことは、(特に茅葺民家に限って言えば)「縄文+アルファ」が、いきなり、「モダン」と出会うという振り幅の大きい刺激的な行為でした。古民家再生工房は、近代日本の建築家たちが、見向きもしなかった「古民家」を題材にして、庶民でも体感できる「生身の建築」を作り出すことに成功しました。成功したというのは、前回楢村さんが授業で言った通りで、30年前にやったことが、結果として多くの範囲での社会的課題を解決しており、日本全国、広い範囲にその手法が広がり、かつ、住んでいる人がかなり喜んでいる、ということです。

 

(楢村徹「甦る民家」)

 

さて、少し、専門学校らしい話題を出します。建築史の専門用語が出てきます。「様式」です。

 

「様式(style)の始まり」というのは、西洋建築においての「ルネサンス」だと言われています。それまでは、エジプトは別枠として、ギリシャ・ローマから始まって、あくまで自然発達的にゴシックまで一直線にやってくるのですが、ルネサンスの時点で、建築というものは、人為的に操作されて、取捨選択されて、好みによって選択可能なものだという理解を得るようになりました(皆さんもいつかヨーロッパに旅行して、あちらの建築を味わってみてください)。施主はもっぱら権力者ですから、ここに権力者のために建築を設計する「建築家」と呼ばれる人たちが誕生するのです。当時では、ブルネレスキやミケランジェロなどが有名です。

ここで一つ注目すべき変化あります。自然成長的に建物が推移していった時代と、それ以後の時代では、建物と人の生活というものが、やや疎遠な状態、乖離している状態が生じて来ました。以前は、機能的に、必要に応じて、それぞれの建物で行われる生活に応じた建物の形が、出来上がっていったのですが、ルネサンス以後では、生活からの乖離が発生して行きます。

 

近代社会の思想と技術が日本にやってくるのは、江戸の終わりですが、その後に明治を飾った象徴的な建物は、学校や郵便局を含めた官庁建築を始め、大きな会社の社屋、お金持ちの邸宅など、そう言ったものでした。その一方で、庶民の家というのは、下津井の私の家(明治39年築)の写真を出せば、このようなものでしたし、江戸の延長で作られたものばかりでした。皆さんの近所にも、茅葺を鉄板で覆った空き家が、いまもあるでしょう。

 

(下津井田之浦の山口邸)

 

(下津井田之浦の山口邸)

 

大都市の為政者や権力者、新興成金たちは、時代の感覚を反映した住宅を楽しんでいましたが、都市にいても品のある人たちは、江戸建築のもう一つの高みである数寄屋建築を奢っていましたし、地方都市の豪商などは、茅葺の母屋の脇に、洋館を建てたりと、縄文と江戸を基軸にしながら、少しの洋風をプラスした混在した生活をしていました。また、同時に大正期に入ると、技術的な裏付けが、特に構造について、次第に確かなものになって来ましたので、かつての住まいが持っていた生活に裏打ちされたポテンシャル(モース著上田篤訳『日本のすまい 内と外』住まいの図書館出版局、あるいは、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』1933)を無視したような作り方を、「技術風」を吹かせて改変していく流れも並行して進んでいました。

 

いま私が手に持っている本は、昭和13年に初版が出たもので、明治の教育を受けた学者が工業高校のために作った教科書です。この本には、江戸で完成された日本建築の豊かさが詰まっていて、いまでも有益な本です。下津井の同級生である大工の那須君に貸したこともあります。これは、私が学生当時に大学図書館の本を全ページコピーしたものですが、この本はかなり評価が高いため、現在では、学芸出版社から、改訂版が復刊されて、普通に書店で買い求めることができます。オススメです。

こういった本で勉強した人が、戦後になっても、大工をしたり、設計をしたりしていましたが、戦前に大都市で流行った「洋式建築」や、戦後の建築家が果敢に挑んだ「モダニズム建築」などは、一般庶民の住宅には普及せず、明治以降の建築界の動きで庶民住宅に影響を与えたものは、地震対策や水道の普及による設備関係などの技術的な側面が強いものでした。

 

1970年の大阪万博を通り越して、今後の住宅はどうあるべきか、という課題を、若かりし古民家再生工房の面々は考えていました。1980年代になって、バブル経済の追い風を受けて、無国籍な住宅がプレハブメーカー主導で量産されるようになって、ますます危機感を感じている中で、「文化としての住宅を考える会」を下地として、新築でも保存でない、その間の道があるだろうと、1987年に「古民家再生工房」をスタートしました。

 

(矢吹昭良「甦る民家」)

 

古民家再生工房は、近代社会が日本を覆っていく中で、木造住宅の行く末を憂いていました。擬洋風はカッコ悪いし、様式建築を選択する気もない。かと言って、丹下健三大先生が成し遂げた世界に通用する日本のモダニズムのトンがった思想の先っちょを目指す能力もない。そんなものを目指せば、二流三流に陥ることは目に見えている。そういう自覚を持ちながら、彼らの興味の先は、ヨーロッパの雑誌に出ていた大都市のブランドショップなどが、古い煉瓦造の建物を大改造した建物の方に向いて生きます。

彼らは、煉瓦造が日本では古民家にあたるのではないか、というところに気づき、新築でもなく、また、凍結保存でなくて、縄文民家にいきなりモダンをぶつけようとする、かなりの振り幅を持った「賭け」に打って出ました。「様式」などの概念を持たないナイーブでヴァナキュラーな民家とモダンデザインとの出会いであり、例えて言えば「千年の年の差婚」(笑、みたいなものです。そこでは、ボロい民家が、潤いを得て見違えて命を与えられ、黒い柱にモザイクタイルがぶつかり、茶色の土壁にピンクの漆喰がぶつかる世界です。造形もメリハリがあり、素人にも体感できるような分かりやすい建物でした。そもそもは、カッコいい家を作りたいという想いから古民家に着目したのですが、カッコいいだけではなくて、その家族のプライドを保ち、充実した生活ができるようなそんな環境づくりをしてしまったのです。

彼らが目論んだかどうかは、わかりませんが、彼らの手法は、古いものと新しいものを並存することにより、時間軸の表現ができるようになりました。時間軸の表現は、新築では無理だし、保存でも無理です。それは、古民家の再生だけが成し得る境地でした。

 

古民家再生工房が参考にした、アビターレやドムスといったイタリアの雑誌に載っていた事例は、都市建築の改造ですから、古くても十六世紀、ルネサンス以後の建物たちです。先に紹介した「選択可能」で「生活からの乖離」が見られるような様式建築です。それに比べて、日本の茅葺民家は、生活臭が強く生々しいヴァナキュラーな縄文民家で、軽く500年くらいの年月の差がありますし、庶民住宅と都市建築という差も大きいものです。イタリアを参考にした岡山の古民家再生工房ですが、気づけば、本場よりも落差が大きく、振り幅の大きい仕事を成し遂げていたのです。

 

<私の設計思想>

私たち日本の住まいは、縄文をベースにして、江戸後期にひとつのスタイルが定まり、明治大正と受け継がれてきたのですが、この庶民の生活を規範にしてじわじわと長い年月をかけて積み上げてきたスタイルは、戦争と住宅産業によって大きく改変されました。それ以降、この流れは、息絶え絶えであり、例えば海外旅行から帰ってきて飛行機の窓から見る日本の風景がなぜ貧しく感じるかというと、そこには、「生活」から生まれた住まいが見当たらず、「住宅産業」があるように見えるからで、里山の風景が美しく見えたり、倉敷美観地区の瓦屋根が美しく見えるのは、そこには「生活」があるからであり、掛ける値段は同じでも、手に入れる美しさや質の高さ、いつまでも使い続けたいと思う愛着のようなものは、「住宅産業」が造る住宅にはなく、「生活」から生まれた住宅がその成立過程において自然に身につけたものなのです。

 

「生活」から生まれた住宅というものは、新しくても風景に馴染むものであり、優秀な個人が一生懸命考えた住宅産業の住宅よりも、無限に近いひとのチェックを通って残って来たものの方が、より実際的現実的な回答であり、そういった日本の民家というものをベースにしつつ、現代の住まいを考えているのが私の事務所の考え方です。

 

それは「戦後の住宅生産体制」によってもたらされた「断絶」が、仮になかったとしたら、縄文から続く日本家屋の伝統が現代にまで生き延びていたとしたら、どのような住まいがあり得るのだろうか、という視点を持ち建築デザインを行なう方法で、上からではなく下からであり、産業ではなく生活であり、閉じるのではなく開くことが大事で、特別につくるのではなく自然にできるものの方が良いとするもので、物質的にも精神的にも時間の経過に耐えられ、かつ見た目も美しく、そして建築主はもちろんのこと材料屋も含めて施工に携わるみんながハッピーになれる方法だと、そのように私は信じています。

 

 

<具体的な建物の解説>

 

では、具体的な建物の話をしましょう。

 

(ヤマグチ建築デザイン;見学済み)

戦前の縫製工場を住宅に転用して、その前に増築した棟を設計事務所としています(これは茅葺ではありませんから、直接の祖先は江戸建築になります)。この建物のポイントは二つです。「置き屋根」と「土間」です。

まずは、置き屋根。このような古い建物を再生するときの大きな課題は、屋根をどう扱うか、という点です。屋根の部材(垂木から上、場合によっては母屋も腐っているので交換する)は、交換するというのが通例ですが、この時の私は、それをしたくなかった。上を見上げて、新しい屋根裏を見せたくなかった。そこで、先人の知恵である「置き屋根」という形式をとりました(過去の遺産へリンク)。

次に、土間。私が生まれた家は、下津井で明治の終わりに作られた家で、「通り土間」がありました。小規模の海運貿易をしていた漁師が朝鮮で儲けたお金で建物です。築110年が過ぎており、今も下津井にあって、人様に住んでいただいています。そこで二十歳まで暮らした感覚が、自分がこれを設計する30歳になった時にも生きており、尚且つ「土間がダメな理由」というのが見出せなかったので、そのままの感覚を延長して、土間生活を選んでいます。土間の効用についてはこちらなどを参照ください(MINKAを学び、DOMAに行き着く)。

 

 

(児島の擬洋風;見学済み)

洋風の家がいい、なんなら、お菓子の家のような家がいい、という隣のおばちゃんのご希望で、こんな家を設計しました。木造で洋風を作る、というは、明治の初期の大工たちがやり尽くしているので(これを「擬洋風」と言います)、岡山にある擬洋風建築を探して、取材の旅をしました。参考にしたのは、玉野の山田という地区にある国の施設で塩を売るための施設です。

また、細部では、ドイツの木造住宅のディティールを参考にしています。カラーリングは、児島の明るい太陽に映えるような色合いにしています。

 

 

(一宮の農家)

戦中に建てられた農家住宅の離れの再生工事です。

二世帯の住まいの間に、かなり広い土間があります。若いクライアントと話しながら、作り出した土間でしたが、工事が進むに連れて、お父様から聞いた話では、建設当初と全く同じ広さの土間に戻っているということでした。お父様は、現役の農家でもありますので、親世代の生活スタイルと住まいが合致しており、若い世代の暮らし方にもうまくかみ合っているという結果となり、自分でも感心したものでした。

この家は、石の基礎でしたので、一度その場で全てをジャッキアップして、コンクリートの基礎を作り直して、地面に降ろしました。降ろす瞬間は、この家がもう一度新たな命を得た瞬間でしたから、関係者一同は少々の感動を覚えました。

柱の足元に束石のような形をした木で作った台形状のものがあります。これは、柱の力を受けているわけではありませんが、これがあると、見るものが安心するので、よく作っています。これと同じものが、この教会の和室棟にも有りますので、帰る前に確認しておいて下さい。

 

 

 

 

(児島聖約キリスト教会・和室棟;見学済み)

明治初年に新築された客間の再生です。設計のポイントは、新築時の棟梁が熟慮し、精魂込めて作った8帖座敷をそのまま復元し、その周辺に限って手を加えることで、8帖座敷の特別性を強調することでした。それはこの8帖間が、かつての庄屋の一番良い部屋であったということだけでなく、この部屋を残すことにより、40年間毎週礼拝説教が語られてきた場所であるという記憶を繋いでいくことができると確信したからです。

すなわち、ここでは日本建築の典型的な型ともいえる座敷空間をより質の高いものにすることが、そのまま教会建築としての魅力を高めるための回答となっています。

そのための主な手立てを3つ用意しました。1)手前の部屋(10帖間)の床を下げ、寄木床板・漆喰大壁などで、和洋の対比・新旧の対比を図る。2)座敷の床を浮かせ、座敷の特別性を強調する。3)南東の角をオープンにして、庭との段階的な連続性を得、日本建築特有の軒下空間の豊かさを得る。

 

 

(児島聖約キリスト教会・礼拝堂;見学済み)

さて、これで最後にします。

いま皆さんが座っている礼拝堂は、1995年、20年以上前に新築されたものです。計画当時、私は高松高専の土木科に通っていましたが、この建物の建設過程に大いに刺激を受けて、建築の道を志しました。江戸時代の母屋を残して再活用したらどうなるだろうか、という前提で、事前に、楢村さんにも相談があったそうです。その後、教会建築の専門家であったヴォーリズ事務所に依頼して、設計がなされました(ヴォーリズが生きていた時代の戦後すぐに、ヴォーリズ自身によって旧母屋が改造されたという経緯がありました)。この新築部の屋根をみるとわかりますが、コンクリートで作るけれども、既存の座敷と蔵を含めた形で、トータルで和風の教会堂としようという意識が強く働いていることがわかります。コンクリートだから、和風は成り立たない、というわけでもない、ということを覚えていてください。

 

 

 

 

このあと、教会から5分くらいのところにある浦辺鎮太郎さん設計の建築を見学して、その後解散です。

こちらは、倉敷国際ホテルを建てた後の設計で、両備バスの児島営業所です。倉敷文化センター(現・倉敷公民館)となんとなく雰囲気が似ているのですが、なんとも言い難い造形をしており、浦辺さん独特のモダニズムがみなぎっている建物です。前回の授業で楢村さんが言っていた通り、質の高い建築が街の魅力を高めているという好例です。現在は空き家になっていますが、今後、活用を望まれている建物です。

 

 

 

以上で、終わります。

 

岡山理科大学専門学校「古民家再生論機

非常勤講師楢村徹代理授業

2018年4月28日(土)

 

見学建物;

ヤマグチ建築デザイン(設計;山口晋作、2008)
児島の擬洋風(設計;山口晋作、2013)
児島聖約キリスト教会和室棟再生(設計;楢村徹+山口晋作、2008)
児島聖約キリスト教会礼拝堂新築(設計;ヴォーリズ建築事務所、1995)
両備バス児島営業所(設計;浦辺鎮太郎、1966)

 

推薦図書;
中谷礼二『実況 近代日本建築史』LIXIL出版、2017
上田篤『日本人の心と建築の歴史』鹿島出版会、2005
宮本常一『日本人の住まい―生きる場のかたちとその変遷 』農山漁村文化協会、2007
古民家再生工房『古民家再生術』住まいの図書館出版局、 1995

渋谷五郎+長尾勝馬『日本建築』学芸出版社、2009

モース著上田篤訳『日本のすまい 内と外』住まいの図書館出版局、1979

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』1933

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左官棟梁・大西喜久治
昨日、伯父夫婦から左官棟梁だった祖父・大西喜久治のことを、改めて聞きました。母方の祖父です。喜久治さんは、私が生まれる前に亡くなっていたので、父方の祖父(こちらは漁師)のようには、直接話をしたことはなく、母が間接的に語る内容でしか、喜久治さんのことを知ることはできませんでした。しかも、母は四人兄妹の末っ子だったので、接する時間が少なくて話に具体性がなく、だいたいにおいて、「これこれだった、らしいよ」みたいな語り口でした。そこに、良いタイミングで、母よりも7歳年上の伯父に話が聞けた、というのが、昨日の話です。

「左官棟梁」とは、聞き慣れない言葉かもしれませんが、蔵などの左官仕事が大部分を占める建物を作る時には、大工よりも左官の方が主導権を握り、その工事を取り仕切ることから、そのように呼ばれています。
左官棟梁ともなると、地域の主だった蔵や数奇屋造りなど、左官の技能が求められる物件を数多くこなしていたようです。塩田王の野崎家(国の重文)、下津井の荻野家(倉敷市の指定保存地区内の主要物件)など、地元の名主の家屋で仕事をしていたとのことで、叔父は写真の蔵の補修工事(建設は明治初期)の際に、この現地に手伝いに来ていたことをよく覚えているとのことでした。
久しぶりに会った伯父は、非常に熱く、そして幸せそうに語っていました。

客観性、合理性、経済性というモノサシを持つ近代社会のなかでは、仕事の仕方を身体で覚えている職人などの歴史は、顧みられることはありません。それは身体を動かすことによってしか再現不可能な技能なので、弟子入りして師に就いて教えてもらうより他はなく、それは近代モノサシである「知性」という視点からは、「見えない歴史」となっています。仮に見えたとしても、事実関係を淡々と並べるだけで、そこには、生きて汗をかいた人間の姿を見つけ出すのは、難しいのです。
それは、「産業」的ではなく、「工業」的でもありません。産業化された住宅からは、排除される部類に当たるのが、左官職人であり、左官棟梁です。「金融(保険含む)」「IT」「医薬品(医療含む)」など、「知性」によって最大化最適化されている業種には、利益配分が多く、このうちの「金融」によって、今の日本の住宅産業は、左右されるところが多いのはご存知の通りです。
特に1990年以降、近代社会の危うさを指摘する声は現代思想の分野では、数多く挙げられており、近代ヨーロッパが生み出した思考に対しては、今日では、挫折感を伴わずに語ることの方が難しくなっている昨今ですが、どうやら、日本の住まいの現状は、いまだに、近代から抜けきらず、戦後の断絶の中をさまよっているようです。

戦後日本の住宅は、工法の激変に伴い、落ち着かない出で立ちで、不釣り合いな衣裳をまとわされて、未だにそこここで建築されていますが、銀行の都合に自分たちの生活を左右されるのではなく、普通の人たちが、自分たちの住まいに満足し、幸せに暮らせることが大事であり、戦争によって断絶された建物ではなく、室町から続く日本の民家の延長にこそ、生活の知恵があり、古くて新しい発見を与えてくれるものであること、そのために、これからも全力を尽くそう、そのように感じられた伯父との時間でした。

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これからの住まい;食べるためのすまい
前回は住まいは眠るためのもの、と言ったが、それは、突き詰めて行けば、眠ること以外は他者との関わりの行為であって、例えば食事にしても、今でこそ一人で食事をする人が多いが、昔は貴重な食物を皆で調理し皆で分けて食べていたことから、屋外で行なわれることも多く、眠るためだけの住まい、というのがかなり存在したということから、推論したものでした。

では、食べることについてはどうか。もう少し考えてみたい。
テレビが茶の間の主役になったのは、40年程前だろうか。それまでは、建て前であっても一家の主たる父親が食卓の中心であったはずだが、テレビの置く場所を考えた際、もっとも相応しかったのが、つい昨日まで家主が座っていた場所、もしくは方向だったようだ。その際、父親としては渋々場所を譲ったのではなくて、自分の手柄のごとく嬉々として譲ったのであろうから、この時点で、すでに、家庭内における父親の占める位置というのは、儒教などの影響の元を離れ、今日2010年代のそれに近い感覚だったのだろうと思います。

それまでは、一つの机を取り囲む「囲み型」だったが、テレビの登場により、一つの方向を皆で見る「劇場型」へと、変貌したのです。「囲み型」というものは、座る位置に上下の格付けがありつつ、且つ対等な形式でしたが、「劇場型」というのは、誰も彼も劇場たるテレビの前に同じ方向を向き均一化された者たち、つまりは視聴者であって、その違いは、端に文明の利器が家庭にやってきたという、生活が楽しくなったとか便利になったということに留まらず、家庭内の家族のあり方を大きく突き動かす存在だったのではないでしょうか。
文明の利器というものは、それ自体は熱意を持った開発者が尽力して世のため人のためと思ってつくったものでしたが、テレビが家主の権威を遂に追い落としたように、また(薪で火を起こす技術を不要とした)炊飯器が嫁姑の序列に水を差したように、人の生活というものを大きく変えて行く力を、結果として持ってしまいました。

食べるという行為は、とりわけ、夕食を食べるという行為は、昼間の活動から解き放たれた夜の時間、一日の中で一番くつろげる時間に家族皆で行なう、ある意味もっとも人間らしい行為でしょう。食卓の照明に青白い蛍光灯を使わない方が良いことは、多くの人に知られていることだけれど、炎に端を発する白熱球の放つ雰囲気というものが、囲炉裏であったり、カマドであったりする昔の感覚を呼び覚ますのであり、家族で食べることというのは、眠ることに次いで、家族が家族である所以とも言える行為でしょう。

さて、食べることが住まいで行なう第二の重要な行為である、ということをみてきたが、それはそれとして、昔の再現をしつつ現代の生活の中で楽しむ行為というのは、考えてみれば他にもあり、余暇を楽しむ山登りもそうであるし、陸上競技もそうだろう、犬や猫をペットとして飼うこともそうだろう。そのようなことは、かつて古墳時代や中世の人々がしていたことを、より洗練させて、文化的に仕立て直して、我々が行なっているに過ぎないのではないかと、食べることを考察しつつ敷衍してみた。洗練とか文化とかという言葉は、余り使いたくないが、そうであれば現代的という安易な言葉で代用させてもらうが、そういった、余分ごととも思われることを、現代の人が実感として身に迫る充足感を得るためには、できるだけ、かつて、昔の人がしていたような状況で行なうのが望ましく、そういう再現性を、住まいの中で手っ取り早く行なっているのが、「食べること」であると言えるのではないだろうか。

テレビ番組というものが軒並み求心力を失っている昨今、いっそのこと、テレビをお茶の間から押し出して、オトーさんも、オカーさんも、娘も息子も食卓に就いて、白熱球、もしくは、白熱球の雰囲気が出る代替球の照明を用意し、ロウソクの三本でも中央に立ててあげれば、もうそれだけで、中世の再現が出来上がり、即、幸せな食卓が取り戻せるという算段になる。
松下のスマートテレビCMを民放各社が全部拒否したことは象徴的だったが、実際は自分たちが箱ごと(テレビごと)全拒否されるような状勢で、ここにきて、住まいにとっての重要な「食べること」というものが、ますます、住まいの中心になってきている。そんな時代を映し出す、「食べること」に的を絞った住宅というものがあってもいい。

 
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これからの住まい;眠るための住まい

建築史家の成り損ないとしては、住宅の歴史に思いを馳せて、そこから今現在の住宅を考えていくというのが正攻法で、そのためには、新しい建物も見つつ、古い建物を見て歩いたり、見るだけではなく、歴史資料を漁って、歴史の糧を身体に注入するなど、そういった試みを重ねて行って、例えば、これからは土間の家でしょう、なぜならば、、、と語るのであって、語った上で実際に作るのであって、そういうやり方が私の事務所の正々堂々とした攻め方です。

歴史に思いを馳せる等と言っても、ピンと来ない人が多いでしょうが、今では、「あ、携帯、失くした!」と大きな声で言えば、「あら、だいじょうぶー?」と周囲の人に言ってもらえるでしょうが、「あ、お米が無くなった!」といっても「じゃあ、買ってくれば?」と若干トーンの低い返事が返って来るというもので、時代が変われば共有する意識というものも変わるものなので、今のこの日本では、「携帯失くした」の方が俄然存在感がある事に気付くのです。「お子さん、だんだん食べるようになったんでしょう!?そりゃあ、お米も無くなりますって」と上沼恵美子相談員に言われそうですが、「でもね、ヤマグチさん、私この間、その携帯電話を、、、なくしちゃったのよー、もうびっくりしたわ〜。いまどき、お米よりも携帯よね。ぶーー」とも言われそうで、昭和の匂いのする彼女をしても、世の移り変わりには抗えなかったということでしょう。

時代が変われば意識が変わるという、そういう意識の違いの理由を探ってそこから、今の時代の住まいを考えていくという、一言で言えば、温故知新ですが、古い材料を使うことが、即、温故知新だと言う工務店のような安易なレベルで攻めて行っても、売り込み方がうまければそこそこ商業的には、安泰なのでしょうが、やはり、建築史家の成り損ないとしては、深入りしない程度に、こちら側に陣を取って、でも、外側ではなく、内側を見て行くというアウトサイダーの目線で、今日も建築を考えているのです。

さて、住まいとはどこから来たのか。
先人に寄れば、この問いは突き詰めて行けば、「寝る」という行為に行き着くそうで、寝るには、就寝と性交という二つの意味があり、でも、性交の方は屋外でもできるので、やはり、身体を休息させる方の寝るというのが、住まいの第一義的に必要とされた機能なのだそうです。
つまり、一個人にとって最重要な行いは「寝る」ということであり、寝るためだけの建物、というのが、昔は結構あったそうで、その場合には、食べることや水浴等というものは、屋外で行なっていたそうです。つまり、寝ること以外は、他者の視線を感じ、他者との関わりを想定した行為であり、食べることもふくめて、いわば、寝ること以外は社会的行為なのだ、ということがわかります。

かつては、「塗り籠め」と言われる、壁を土で塗り固めた小さい部屋を造って、(機能的必要から)家族みんなで、床に筵と藁を敷き詰めて(木綿が普及する前ですから)就寝用の着物を被って眠っていたようですが、寝具の発達と共に、就寝専用の部屋は無くなり、畳が一般に普及したことも相まって、今風の敷き布団と掛け布団さえあれば、どの部屋でも就寝することが出来ることになりました。つまり、寝具の普及前には、家族みんなで一つの狭い部屋に眠っていたものが、寝具の普及と共にどこででも眠れるようになり、子供と親は別の部屋、というのがやっと実現したという次第なのです。

こう考えていくと、食事をしたり、お風呂に入ったり、着替えたり、寛いだりなどという、「寝る」こと以外の住宅内のすべての行為を、共有空間で行なってもらって、家族みんなで「寝る」ことを、とても象徴的に扱った住まいのあり方というのがあり得るのではないか、という一つのスタイルが浮かび上がってくるのです。

今の日本の9割が勤め人ですが(公的統計)、職業が勤め人で家に滞在する時間は極端に少なく、家に対する要求はまさしく「就寝」という一つの行為に行き着くというひとが、世の人々の6割にも達するという統計(ヤマグチ調べ)が出ている昨今です。かつて社会学者たちは、核家族の先には疑似母子家庭があるのではないか、と三十年程前に予想したようですが、30年経った今では、男女雇用均等法という愚策によって母も働くようになり、教育の大衆化というこれまた愚作に寄って子供は学校に奪われ、住宅には子供しかおらず、いや子供も塾などで家にはおらず、そして誰もいなくなった、というのが、残念ながら、今の日本の社会であり、住まいであるといえるのではないでしょうか。

でも、最後の砦があります。そう、「寝る」ことです。一つの部屋で家族みんなが寝る、ということ。これを、最後の砦とし、家族である証しがここにあるのだ、とする住まいを造ってみても良いかもしれません。世の中が混沌とし、何が正しいものか、何が幸せなのか、考えあぐねている世界に向かって、みなさん、住まいとはこれだよ、住まいとは家族みんなで寝ることだよ、というように語り、実物の住宅として提示するのです。

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歴史を取り戻す
そもそも、住宅産業、という言葉が、気に入らない。と過去に書いたが続いてそのあとに、「無理矢理「産業」にしているのがだめだよな、と思うわけです。自動車や家電のように工業化しないと世の中に出現しない代物と違い、住まいというのは、人がこの世界に生まれたそのときから、いつでも・常に・同時に・いやでも、「ある」わけで、やはり、「産業」ではなく「生活」だよな、とおもうわけです。」とも書いた。 

このように書くと、合点がいった方がいたようで、あの回は良かったよお!、と建築の友人が声を掛けてくれたことがあった。おい!君も読んでいたのか!?とそのときは思っていたが、やはり、素人には敬遠されがちで、専門家が好むコンテンツだし、さらにわたしに直接会ったことの無い人は、文体と語彙が独善的すぎる嫌いがあるために、とても付き合い難いひとのように、受け取られてもいる。

さて、建築史家を志したこともあった私としては、自分なりの温故知新の思想で現在は「行動する現場建築史研究者」を自称し、その実は、つまりは、売れない地方建築家だが、出すためには入れないと行けないという自然の法則に従い、先日は岡山県内の重要な建築物を一日で巡るツアーを敢行した。

森江家

住まいというのは、雨風寒さを凌ぐことからはじまって、寝食の場所を備えつつ人の生活に伴って工夫が施され洗練され機能が増えてオシャレのための装飾も付いたりしてくるものです。それは、なにも画一的なものではなく、お金が異常に掛かるものでもなく、ときには「結」とよばれたりする近所の人たち総出で一つの家を造ったりするという共同体を維持する側面もあるなど、頭ではなく心にとって無理の無い範囲で(言い換えると、書き言葉ではなく話し言葉で通じる人間関係の範囲で)人と人の繋がりが自然につくられていくようなものであり、人間の生活から生まれたものであります。(少し規模を拡大すると、版籍奉還や廃藩置県で無くなった幕藩体制のうちの、「藩」という規模こそ、頭ではなく心にとって無理の無い範囲で、ある一定の秩序を持った共同体がまとまって行く組織の看板だったのではないかと、最近は考えています。)

閑谷学校

今日では住宅を考えている多くの人は、住宅展示場に行くと思いますが、住宅展示場へ行くとその展示場という世界だけで住まいのすべてが説明されているような感覚を覚えます。とても巧妙な仕掛けで、ある意味それは詐欺でさえありますが、詐欺にあってしまった方々がわたしの発言を聞くと、夢物語を言っているように写るかもしれません。しかし、戦後の住宅を政策として作ってきた住宅産業というものが、そもそも異常だっただけで前回も書いたように、近年では建築本来の機能は横において他のものでアピールし始めてますが、そのアピールポイントは「以前よりもよりすばらしい住宅」というわけではなく、単に過剰設備であるだけであって、その異常な状態に対してわたしが普通のことを言い続けているだけであります。

産業ベースではなく、生活ベースというのは、言っていることは単純でそれほどパッとしません。それどころか、すこし現実からかけ離れているように感じるかもしれません。夢物語のように感じるかもしれませんが、それは日本の人たちが室町から普通に行なってきたことを踏襲しているだけであり、ましてや「抵抗」しているというよりも、ここ50年程の異常状態から普通へと正常化し、修正化しているような感覚です。歴史を取り戻そうとしているのです。

一日で国宝二つを含む文化財を巡る旅で得たものは、とくに300年を超えた江戸時代初期の古民家にふれて感銘を受けたけれど、何ごともインスタントでは作ることが出来ず、長い時間をかけて出来上がるものだと言うことです。わたしの生家が既に100年を超えているように、また、今のわたしの住まいが今年で80年を迎えるように、住宅というのは、100年くらいその場所にあるものだというのが、わたし自身の感覚ですが、その長くその場所にある住宅を造るのに、出来るだけインスタントに早く作りたい、とする産業ベースの感覚というのは、基本的にズレた感覚です。全世界で「Yes!」が「はい!」の意味だと浸透しているのと同じくらいの浸透力で、セメントや鉄筋、トタン板などの基本材料が世界中で作られ出すと、また違うのですが、基本的にはその地域風土にあった住宅を、書き言葉ではなく話し言葉でつくるかのように、造っていくというのが、後々にも残り、大切にされる住まいのような気がします。

わたしのように中座したものが言うのもなんですが、建築史研究者のひとたちは胸を張って、歴史を取り戻す作業に当たって欲しいし、逆に、ホットな話題で言えば、槙さんが安藤さんを痛烈に批判している新しいオリンピック競技場の実例にあるように、歴史を壊すものたちを殺すことにも尽力して欲しいと思います。また、同時に苦言を追加すると、その任を追いきれない人は、わたしのように中座して目の前の与えられた仕事を感謝しつつこなして、与えられた立場で社会の役に立つことです。

吉備津神社
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