建築思想 | 建築随想「仙芳丸航海日誌」
ヤマグチ建築デザイン
しっかりとした床

工場や倉庫の雰囲気を個人住宅に取り入れたり、工業用品を身の回りの日用品に取り入れる事例が相次いでいる。倉庫風なカフェや倉庫風なオフィスなどは、珍しいものではなくなってきた。100円ショップの品揃えでは、モダンな装いの白い陶器やミッドセンチュリーに端を発する樹脂製の容器などが、かつては幅を利かせていたが、最近では、金属の各種製品が相当な広がりを見せている。これらは、「インダストリアル スタイル」と分類しても良さそうだ。机の上のペン立てを「ホーロー看板」のような雰囲気にプリントされたモノを使ってみたり、いわゆるブリキ製(亜鉛めっき)の小さいバケツとかは、それこそ、大量に生産されている。

100円ショップにあるものは、本物ではなくて、「○○風」「○○スタイル」と呼ばれるものだろうが、本物のインダストリアルを日常に組み入れた時の違和感を楽しみ、その本物感を味わっていた先人が独特の価値観を広げていった結果が、現在の「インダストリアル スタイル」につながっている。何にしても、「本物」が先にあり、それに影響を受けた「商品」が後になってできるものだ。

 

これら本物のインダストリアルが好まれた背景には、既存の商品群には、売るために差別化を図ろうとする匂いが、商業的な付加価値をつけようとする思惑が感じられるなかで、インダストリアルな製品たちには、その「匂い」が見つからなかったという状況があったのだろう。商業的な付加価値に拒否反応を示し、売るために価値観を捏造した商品に「No」を言い渡したのだ。インダストリアルな製品というのは、もともと、特定の場所と特定の目的のために作られたものであって、「売るため」に作られたものでは、ないからだ。「売るため」の商品ではなく、「使われるため」に作られたものだ。

それは、かねてから言い続けている日本の民家の伝統建築にも、もちろん通じるものがある。民家というのは、人々の生活の中で何度も試され、練られた結果、数え切れない幾つもの実地試験をくぐり抜けた結果、生き残った精鋭構法の総体なのであるから、それは「売るため」の商品ではなく、「使われるため」に作られたものだ。

 

「売るため」の商品ではなく、「使われるため」に作られた商品が好まれる、ということは、この時代では必然だと思う。人口が増え続け需要が鰻登りに高まっていった時代では、何を作っても売れたから、何を作ろうか、どのように作ろうか、という発想は希薄になり、売るにはどうすれば良いかという短絡的な思考に陥りやすい。しかしながら今日のように、人口は減り税収は減り、需要は減り、需要を掘り起こしながら新たな販路を見出さなければならない状況の中では、「作れば売れる」というかつての状況は存在しない。つくる側の論理、ではなくて、使う側の論理でよくよく練られたものだけが、飛距離を持って、個人の手に渡っていくのだ。いや、本来は、そうではなかったか、人の生活から、人の必要から、物が生み出されて行き、それの積み重ねで洗練されて行く、本来はそういうものだったはずだ。

 

その意味において、一個人の振る舞いに置き換えれば、他者が求めることをするのではなくて、自分がしたいこと、好きなことをやり続けるというのは、良い生き方だと思う。自分が他者に気に入られる(「売るため」)ことを先に考えたり、嫌われることを恐れたりするのではなくて、自分がしたいように自分が生きたいように生活を続けていくというのは、一見、子供っぽいと受け取られることだが、いろいろなことを分かった気になって、「世の中はそういうようになっているのだ」と(わかりもしないのに)自分に言い聞かせつつ、言いたいことも言わないで、過ごしているよりも、よっぽど気持ちの良いことのように感じる。物分かりの良い大人になるよりも、「子ども心」を持って世の中を生きていくほうが、良いのではないか。楽しいことをやり、失敗してもまたやり続ければいいのだ。

 

そんなことを考えながら、現在工事中の物件や現在設計中の物件を眺めていると、そこには、毎回登場している黒色のモルタルで塗られた、しっかりとした床があることに思いが至った。倉庫が好まれる理由には、しっかりとした床がそこにあることが、かなり重要な要素になっている。うつろい易く、確かな指針を持ちにくい現代にあっては、確かなものに対する依存度は高まっている。古い倉庫の床というのは、ひび割れやシミのついたコンクリートの床が大半だが、そういった床こそが愛される時代になっている。

 

| 00:05 | comments(0) | - |

良い家に住みたい

自分が大切に思うもの、大切に思う人たちとともに過ごすことができる場所、それが家なんだろうと思う。

住宅の相談を伺うときに、大切にしたいものは、なんですか、という話をたくさんする。それらをたくさん聞いていくのが、僕自身の役割で、それらの総体を、新な住まいで実現するのが、依頼者にとっての「家づくり」なのだ。

 

だいたいにおいて、好きなことを話している人は、幸せそうだ。「あれがね、好きなんですよお。」「いやあ、たまらないっすよ。」「え?山口さんも好きなんですか。」「忙しくても、やっぱり、あの時間は大切にしたいですねえ、だって、好きなんですもん。」、、、こんな具合だ。こういうのを「好きすき大好き問題」と名付けてみる。

 

一方、家を建てるときに予算の少なさに幻滅したり、どこでどうやってお金を借りようかと比較検討したりする段階がある。そういった「お金問題」に対して、頭を悩ます人がまことに多い。「好きすき大好き問題」を住まいの中で実現しようとすると、「お金問題」に押さえつけられるパターンが多い。でも、「お金問題」に対して、あまりにも萎縮して、「好きすき大好き問題」を放棄するのはナンセンスだと思う。ひどい場合には、余りにも「お金問題」と格闘しすぎて、「お金問題」に対して、自分の中で折り合いをつけることができた時点で、家を作るということが、達成されたかのような錯覚を持つ人もいる。だがしかし、家はお金ではない。

 

「お金問題」というのは、個人で戦うような相手ではなく、「勝ち負け」ですら、ない。あなたにとっての「予算枠」は、急に増えることはなく、それは、足元で横たわっている。変えることのできない現実として、生活のベースとしてある。そして、ここが肝心なのだが、「お金問題」は、個々人にとって、程度の差があるだけであって、誰にとっても「足りない」と感じさせるような代物だ。それが消費社会・金融社会に生かされている多くの人の感覚なのだが、そういった感覚を現代に生きる日本人は、身につけさせられている。

 

「お金問題」に萎縮するのではなく、諦めきれないこと、自分自分が「ああ、これが好きだ」と心から言えることを、住まいの中に点在させるように意識していくことが、良い家の条件のように感じている。「好きすき大好き問題」を貫徹するのだ。自分が大切に思うもの、大切に思う人たちとともに過ごすことができる場所、それが家なんだろうと思う。そこまでが、家を建てたい!と思う人の大切な事柄であって、それを携えながら、ゴールを目指していけば良いだろうと思う。

 

普段は、こんなスタンスで設計の仕事に臨んでいる。住まいの相談を受ける際に、その家族が好きなこと・大切にしていることをたくさん話してもらって、それらが日常の中で実現できるようにすることが、建築家の役割なのだろうと思っている。そういう状況を作り出せたら、そこは天国であり、楽園になると思う。日常を豊かに充実して過ごせるような居場所を作るのだ。

 

| 06:36 | comments(0) | - |

謹賀新年

建物は兵士ではない。

死んでもすぐに補充されて、

戦線には「何も異常なし」と片付けられてしまう兵士ではない。

 

街は人が暮らしていくための場所なのであって、

建物は、人々の暮らしのために建てられるものなのだから。

用済みになった建物が全く無造作に壊されていくというこの現実は、

我々の暮らしが無造作に変えられて行きつつあることなのだ。

 

それは進歩というものなのであって、

何も心配することではない、と言われ続けて、ここまで来てしまった。

我々は心配して良い。

建築を美しいイメージで語ることによって、

建築家たちは実は新しさだけを求めて来たのではなかっただろうか。

 

我々は建築を概念の産物として捉えすぎていなかっただろうか。

もっと我々は自らの実感に即して、建築を見直すべきではないだろうか。

勇ましいフロンティア・スピリットというのは、

インディアンたちを見ることのできなかった、「空白」の意識のことではなかったのか。

 

 

以上、故鈴木博之先生の著書から引用しました。鈴木先生は、建築史家・建築評論家として長い間活躍された方でした。この文章は、日本が経済的に成熟の頂点に立った時に書かれたもので、当時の建築家・建築メディア業界への批評文です(『建築は兵士ではない』1974年)。年に初めにあたり、思い出したので、本を引っ張り出して引用しました。43年前の言葉です。

 

今年もすでに多くの宿題をいただいて、お正月休みみたいなものは全くなしで、働いていました。児島を中心にして、地域に関わって活動ができることを大変嬉しく思います。今年もよろしくお願いいたします。

 

| 11:05 | comments(0) | - |

醤油と土壁と設計事務所

この間、今年2回目のヤマロク醤油に行きました。小豆島の醤油屋さんは、未だに木の樽を使っているそうで、これは全国的にも珍しく、もっと誇ってもいいことだと思います。

 

 

代々受け継がれてきた醤油蔵には「麹菌・乳酸菌・酵母菌」が、樽や土壁に潜んでいて、放置しておけば醤油が出来上がるのだそうです。原材料の「大豆、小麦、塩」を厳選した上で、先人たちがやってきたように、淡々と作っていくだけで、もうそれだけで、貴重な醤油が出来上がるという運びです。アミノ酸やグルテンの人工的な投入は不要です。

 

いかに効率的に商品を作リ、大量に売りさばくか、というのが、会社の、そして社会全体の発展の礎だと、思いながら生活が重ねられてきましたが、ここにきて、その思想の行き着く先に、希望が見出せずにいます。醤油蔵での先人たちの作業は、時間がかかり、面倒なことも多いのだと思いますが、その方式が現代の金融優先の社会でも通用するなら、これからも続けてほしいものだなと思ったのでした。

 

 

一方、こちらは「土壁風」の壁を持つ、小さな改修工事の写真です。3階建ての鉄骨住宅の一階だけを改修するという仕事でした。ご夫婦は退職を控えたお二人で、長い人生の最終章を迎える前に、生活を整えたいというご希望で、将来は、一階だけで生活が完結するような計画を提案させていただきました。写真にあるのは、現在は居間として使い、将来は寝室としても使えるという設定です。

 

また先日は、知人の依頼で、二時間の打ち合わせとその後大工への施工指南をするという、「三時間パック」のような仕事をさせていただきました。図面らしきものは、本当に書いておらず、依頼者の気になるところを伺い、フリーハンドでスケッチを繰り返すこと二時間、その後、工事をしてくれる大工さんを呼んで、その場で、説明して、見積もりを依頼するという方式です。

 

2軒ともに共通するのは、お金の大小ではなく、どんな生活をしたいのか、という点を大事にしながら、これからの生活を住まいに投影しておられたことでした。このような形で、ヤマグチ建築デザインが関われるのは、素直に嬉しいものでした。それは町医者のようであり行きつけのカフェやパン屋のようです。醤油蔵の菌たちが自然と醤油を作るように、児島の小さな設計事務所も、自然と地域のお役に立ちたいものです。今年もあと二ヶ月ほどです、頑張ります。

 

 

 

 

 

 

 

| 16:14 | comments(0) | - |

歴史をつなぐ
 『鍋物やおでんに欠かせない秋冬ダイコンの市場価格が、全国的な出荷量の増加で値崩れを起こしている。原因は11月の記録的な暖かさと、平年を大幅に上回った降水量。急激に肥大したため、大きすぎて流通に適さないダイコンが続出。ダイコンの国指定産地、兵庫県たつの市御津町の「成山新田」では、自主廃棄する農家も出始めた。』(神戸新聞NEXT12月7日(月)11時16分配信)


 今年も「自主廃棄キャンペーン」が、開始されている。採算ラインを割ってしまうと、丹精込めて作られた野菜は捨てられるのである。箱詰や輸送にかかる諸費用の方が利益よりも大きくなるから、損害を少しでも減らすためには、こうする他ない。同じようなことは、工業製品や衣料品でもよく起こる。むしろこちらの方が、馴染み深いだろうか。

 近代の経済活動というのは、原料の入手から生産・製造、そして販売の過程の全てを通じて、できるだけ早く資本を回収し、なるべく大きな利益を得ることだけを考えて、その目的達成のためには、何をしても構わない。自主廃棄はもちろんの事、病気になりそうな添加物を食品に混ぜても構わない。基準値以下で、薄く混ぜれば大丈夫だ。これをソフトキリングという。


 住宅はどうだろうか。住宅も同様で戦後期に大変化を迎えた。都市部での住宅需要に応えるために、新建材と新工法を開発し、工業化された住宅がこれからの時代にはふさわしく、それは「善」とされた。住宅業界のことを「住宅産業」と呼ぶようになったのはこの頃である。あの戦争から70年が経ったが、日本の街の風景は、住宅産業が作る規格品で溢れており、昔気質の巷の大工でさえ、建材屋に並ぶ材料に「規格品添加物」が加わっているために、作る住宅も自ずと産業化住宅に似る。

 しかし、ちょっと待ってほしい。人間は、「産業」や「工業」という名前が生まれる以前から、住まいに住んでいたのではないか。太古の昔から自らの住処を作り、寝床を整え、食事をし、寛ぎ、遊んでいたのである。それは非常に精神的な営みであり、これらを「科学技術」で「良いもの」にしていこう、という思想はハナから間違ってはいないか。産業革命以来の人工的な病である「科学信仰」が通用しないのが、住まいという代物である。
 私は、室町以降、五百年間のあいだ、無名の人々による「実地テスト」をくぐり抜けてきた「日本の伝統的な住宅」に票を投ずる。そちらの方が「産業」ではなく「生活」の延長で作られたものであって、「金融」とか「経済」という、浮ついた世界とは、無縁の中で脈々と形作られたものだからだ。今後も、そういう歴史をつないでいきたい。

(この原稿は、「建築家のしごと展2」に寄せたものです。2015年12月9日から13日まで開催されます。会場は、倉敷市立美術館です。)

| 22:33 | comments(0) | - |




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