倉敷建築工房 山口晋作設計室
鷲羽電器

昭和38年3月、人口が一万人規模の港町下津井において、鷲羽電器は創業した。創業者(故人藤原光政氏)が国鉄勤務時代に、職場でラジオなどの修理を趣味で行っていて、部品購入先の「ラジオ商」にたびたび出入りする中で、松下電工から販売店にならないかとの誘いがあったと生前の藤原さんから聞いた(因みに家電販売の地方店網の体制づくりとしては、当時、松下は後発グループだった)。それから、60年近くたった今、下津井の人口は、4,400人ほどとなり(2020年12月)、家電販売店は、鷲羽電器ひとつとなった(かつては4店舗あり)。

戦国時代に備前国の出先機関として城(下津井城)が構えられ、その城下町としての街並み形成がなされたこの地区は、岡山県による街並み保存地区として指定されている。県道沿いの建物には、江戸末期から昭和初め頃までの雰囲気を残す建物が点在しており、そのため倉敷市は補助金制度も備えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(県道沿い北側の外観)

 

鷲羽電器のお客さんは、近所の下津井の方を中心に、児島地区全体(人口6.7万人2020年12月)に広がっているが、特に創業者の時代からの馴染み客は、歩いてきたり、自転車で来たりする方が多く、藤原さんの昔話を聞きながら、建物の外観を考えていくと、やはり、和風の雰囲気がふさわしいだろうと判断した。それは、そもそも建物というものは、人々の生活を反映して使いやすいような「大きな道具」として考案されているものであるという前提に立った時、現在失われつつある、人と人とが同じ地域での生活をしているという共同体としての連帯感を感じるものが、店舗の顔(つまりは、外観)に感じられることが自然であろうと思ったからだ。

 

(海側湾岸道路からの外観)

 

一方、息子さん(50歳代)やお孫さん(20歳代)の世代からしてみると、徒歩自転車のお客さんだけを相手にしていては、仕事にならないのは明白だ。おまけに、二階は電器店ではなく、それとは無関係に地域のイベントを行えるような場所にしたいという強い要望もあった。そういうことで、実際には、多くの方が、海側の湾岸道路から車で来るのだから、駐車場と共に、そういった方に相応しい「店舗の顔」も備える必要があるだろう。

 

当初は、店舗全体をモダンな感じにしたいというのが、クライアントの意向ではあったが、創業者藤原光政さんの辿った仕事人生に想いを馳せつつ、上記のような近所に住む人にとって馴染みのあるお店を目指すとしたら、北側(県道側)は和風でまとめて、海側の開けた雰囲気の湾岸道路からの外観は、モダンにしてみるという「二つの顔」を持つ店舗というのはいかがだろうかと提案した。クライアントは私の提案を歓迎してくださり、写真のような外観、すなわち「二つの顔」を持つ建物となった。

 

 

「二つの顔」を持つ建物というのは、専門家として誠実に建築設計をしている多くの同輩者からすると、そんな乱暴なことはありえない!と糾弾されるような姿勢だと思うし、じっさい自分自身でもそのように考えて、悩みながら何度も描き直した。

 

その当時、悩みながら、試しに建物を人間に喩えてみた。日々の生活において、Aさんと話す時とBさんと話すときの自分のどちらの自分が「本当の自分」なのか、ということに置き換えて考えてみたのだ。その時に、両方ともが「本当の自分」であることを、認める自分がいた。おそらく、誰しもがそう認めるのではないだろうか。一対一で話しをするのではなく、複数人でしかも付き合う場面が違う人が集まった時には、どのように話したら良いのか、戸惑うことがあるが、戸惑うのは、「Aさん向けの自分」と「Bさん向けの自分」をどのように表出すれば良いのか、そのアクセルの開け具合に困るからだが、そういう場面を繰り返すと、別々の自分だが、どちらも自分であることに思い至る。

 

この建物の基本計画をしているとき、小説家平野啓一郎さんのエッセイ『私とは何か −−−「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書、2012)に助けられた。主題と離れるので詳報はしないが、そこでは、特定他者(もしくは特定コミュニティ)との関係から築かれた人格(分人)が、人の中には複数いて良いし、その「分人」が、一人の人間の中で互いに影響し合い融合することを肯定する話が綴られていた。またひとりの人間の話とともに、文化と文化が混ざり合うことも扱っていて、文化同士が互いに影響し合い、浸透し合う状態も肯定していた。

 

 

(基礎工事の際、江戸時代の港湾施設が見つかりました)

 

現代は、「隣三軒両隣」の時代ではなくて、もっと広い範囲の人と日常生活を共にしている。大都市では、逆に隣に誰が住んでいるのか、知らない人もいるそうだが、この地方都市児島にある鷲羽電器の仕事の仕方としては、身近な方も遠くの方も、どなたでもが、その方のペースで訪問できて、お店での時間を過ごすことができる。別々の文化がこの場所で混じり合い、営業的にも二階で行われる社会活動としても、文化同士が互いに影響し浸透し、さらには融合する場になるだろうと期待している。

電球一つから交換に伺う地域に根差したお店として、60年が経つこの店舗の仕事ができて、同じ下津井生まれの者として、嬉しく思う。

| 19:50 | comments(0) | - |

岡山の都市住宅、シモーム邸(上)

地方都市の市街地に建つ住宅は、どうあるべきか、ということを考えてみました。郊外ではなく、市街地に建つ住宅です。

上の世代の方にとってみれば、東考光の「塔の家」を真っ先に思い浮かべることでしょうが、今は昔、しかも、地方都市の市街地ですので、ここは少し心のゆとりを持って臨みました。

 

(重要文化財;現存する日本最古の住宅「箱木千年家」室町時代)

 

従来、日本の住まいというのは、「箱木千年家」にあるように、高温多雨の気候に合わせて、大きな屋根で「家族が眠るところを守る」というのが、通例でした。正面から見ると、壁はあまり見えず、屋根ばかりが見える、という上の写真のような住宅です。屋根の勾配がキツくないと、草葺きの屋根は雨漏りするので、とても急な屋根が載っかっていました(ほら、あれですよ、アニメ「日本むかし話」の、アノ屋根ですよ)。もっとも、粒度の揃った粘土を高温で焼いた瓦が発明・普及されて以降、その屋根の勾配は、幾分緩和されたものの、それでも、今の日本の風景を覆っている緩い緩い勾配の屋根ほどではなく、丘に登ると瓦が一面に連なっている姿は、それは見ていて心地よいものでした。その屋根の勾配を現在のようにサラに大きく変えたのは、第二次大戦後にスタートした「住宅産業」という業態でした。

 

一方、雨の少ない地域、例えば、イタリアのフィレンツエにある都市住宅などは、屋根といっても、日本人から見ると、ちょいとした庇があるだけで、------こちらは、ほら、「麦わら帽」ではなく、「ハンチング帽」みたいなもので------、屋根はほぼ見えず、街ゆく人からは、壁だけが見える、という印象を持ちます。

 

(アルベルティ「ルチェルライ宮」フィレンツェ、1451)

 

そういった、日本の屋根とイタリアの屋根を同時に併せ持つ、ハイブリッドな住宅を考えていくことが、岡山の都市住宅のかたちを導いていくのではないだろうか。確かに、日本の家は高温多湿で雨が多いので、雨が多い日に窓を開けていても、室内にはビタ一文!雨が入ってこない、というのが理想だろうが、それを隙間なく建て混んでいる都市住宅で実行していると、光が全く入らない、暗〜い家になるのではないだろうか。

ちょうど「雨の日でもクルマの窓を開けたい」という欲求を実現するために、様々な形状の「ドアバイザー」が世の中にあるように、「屋根の建築」であると共に「壁の建築」でもあるような住宅を目指そう、そこから、都市住宅の屋根を考えてみよう、と取り組んだのが「シモーム邸」です。

 

もっとも当然ながら、戦後の「住宅産業」の人たちが行き着いた、限りなく緩い勾配の屋根(面積が少なくなるので、材料代が安くて済む)のように、住む人のことを思わずに、自分たちにとってどのように作れば効率が良くて利益が上がるだろうか、ということを最優先事項として掲げていたのではなくて、狭くて地価の高い中心市街地の中にあって、人として健全な生活を日々送るためには、やっぱ、居間に光は要りますよねー、ということがポイントでした。そう考えていくことが、家族にとって居心地の良い、都市の砦である都市住宅を導く杖なのではないだろうか、と。

 

 

(「シモーム邸模型」古民家再生工房30周年記念、2017年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(下)に続きます。

| 00:50 | comments(0) | - |

琴浦の家;闇をまとった家

この住宅が建つ場所は、江戸後期から明治にかけて、讃岐の「こんぴらさん」(金刀比羅宮)との「両参り」により、参拝客(観光客)がたくさん訪れた児島の琴浦地区にある個人住宅です。賑わっていた当時のこの狭い道の両側には、宿屋が多く点在していたようで、いまだにあれは旅館だったかな、と思える建物があります。また、新築前の敷地には、写真のように、当時からあったのではないかと思しき、茅葺き屋根の住宅が建っていました。

 

(工事前の様子)

 

(完成後の様子)

 

谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』の中で、次のように言っています。

日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない。しかも鳥打帽子のように出来るだけつばを小さくし、日光の直射を近々と軒端に受ける。けだし日本家の屋根の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、その他いろ/\の関係があるのであろう。たとえば煉瓦やガラスやセメントのようなものを使わないところから、横なぐりの風雨を防ぐためには庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくあゝなったのでもあろう。が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれ/\の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。(「青空文庫」から抜粋)

今回のクライアントは、味わい深い昭和の住まいを旨とした住宅が好きです、との趣向の持ち主で、かつ奥様が30年近く前に面識のあった方でもあったので、家族生活のタイムスケジュール、休日の暮らし方、家族の趣味などをじっくりと伺うことができた、設計者としては「好条件」を持ち合わせた方でした。

 

谷崎先生はとても正しい表現で、西洋住宅との対比の中で日本家屋を言い当てていますが、その日本家屋が平成の終わりまで生きながらえてきたとしたら、どのような建物になっていたであろうか、という視点を持ちつつ、今回の設計に取り組みました。そのような感覚を持ちながら、解体前の古い茅葺き屋根住宅を眺めていると、「やはりここには茅葺き屋根が似合うだろうな」と考えるしかないように思えてきて、そのような提案をさせていただき、実現に至りました。

 

(過去事例;茶屋町の「擬似茅葺き屋根」の住まい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(重要文化財;現存する日本最古の住宅「箱木千年家」室町時代)

 

 

谷崎先生はこうも言います。

 たとえば、もしわれ/\がわれ/\独自の物理学を有し、化学を有していたならば、それに基づく技術や工業もまたおのずから別様の発展を遂げ、日用百般の機械でも、薬品でも、工藝品でも、もっとわれ/\の国民性に合致するような物が生れてはいなかったであろうか。いや、恐らくは、物理学そのもの、化学そのものの原理さえも、西洋人の見方とは違った見方をし、光線とか、電気とか、原子とかの本質や性能についても、今われ/\が教えられているようなものとは、異った姿を露呈していたかも知れないと思われる。私にはそう云う学理的のことは分らないから、たゞぼんやりとそんな想像を逞しゅうするだけであるが、しかし少くとも、実用方面の発明が独創的の方向を辿っていたとしたならば、衣食住の様式は勿論のこと、引いてはわれらの政治や、宗教や、藝術や、実業等の形態にもそれが廣汎な影響を及ぼさない筈はなく、東洋は東洋で別箇の乾坤を打開したであろうことは、容易に推測し得られるのである。(「青空文庫」から抜粋)

谷崎先生ほどではないですが、私は戦後の住宅メーカーという存在が、仮になかっとしたら、戦前までの日本家屋の伝統が平成の終わりまで、順調に続いていたとしたら、どのような家になっていたであろうか、という視点を持ちながら、今回も取り組みました。戦後住宅の呪縛をスルーして、別ルート異空間で潜り抜けた末、平成の終わりに舞い降りた住宅を、です。

 

住宅というのは、眠るところであるし、落ち着いて食事をするところであるので、昨今のような余りにも大きな窓というのは、相応しくないだろうと思い、今回も小さな窓を採用しました。伝統的な大きな屋根と小さな窓を与えられ、この地方で親しまれている「メンテナンスフリー」の焼き杉板で大々的に武装されたこの家は、屋根の黒色鉄板の色合いも加味されて、さならが「闇をまとった家」として、古い通りに舞い降りました。

 

まだ日本人が着物を着ていた時代においては、藍色や灰色といった地味な生地が普段着として好まれていましたが、あれは黄色人種である日本人の肌が際立つ色である、と谷崎先生は『陰翳礼讃』の別の箇所で言及していました(能楽では緑の衣装が格別だ、とも)。この家についても同様で、時間が経ってくれば、建具などの木部も濃い茶色になってきますので、焼き板の上に、か細く添えられた白色ピンストライプの漆喰の飾りは、長襦袢の半衿のごとく、僅かな自己主張として際立ってくると思います。

海と山に挟まれたこの地域では、神社を中心にしたコミュニティが今も機能しており、秋のお祭りが盛んです。西洋思想に影響の大きい現代生活の中で、この地域にふさわしい住宅ができたと思っています。

| 21:44 | comments(0) | - |

パントーン・フューチャー・スクール

倉敷の中島にほど近い美容室を改造した福祉施設「放課後等デイサービス」が、今回の事例紹介です。

 

平成初期に作られた美容室を改造して、主に放課後に利用されるもので、施設利用者は、小学生から高校生が対象で、スタッフは数人という設定でした。内部は、厚労省の掲げる施設基準を満たすために、若干の内装工事を施しただけで、外部は、大きな窓を取り付けて、部屋の中が広く見えるような、構造に改めました。

 

(植栽は「ウズデザイン」によります)

 

学校という現場では、それぞれの子供が持つ興味やリズムは、あまり反映されず、集団での活動を強要されるため、どうしても、「遅れ」や「逸脱」が生じて、子供たちや保護者が傷つき、学校を休みがちになったりします。楽しくないところには、行きたくない、というのは、ごく自然な感覚だと思います。しかしながら、学校制度から見ると児童・生徒の成長に「遅れがある」とされたり、そうでなくても、親御さんたちが不安に覚えるような状況が多いため、通常の「学童保育」ではなく、今回の施設のような建物が、全国各地に増えているようです。

 

(遠くから臨む)

 

社会福祉施設は、その内部を見せないような作りが多いと思いますが、今回の施設は、依頼者と相談の上、中が良く見えるような作りとしました。まるで、新しい美容室か、アパレルショップかというような外観ですが、こういったスタイルにすることで、施設利用者にとっても、誇りに思える場所になるのではないか、というコンセプトです。多くの子供たちにとって新たなステップとなるような、そんな場所になっていただきたいと願っています。

 

(改修前)

 

リンク;

パントーン・フューチャー・スクール

| 21:13 | comments(0) | - |




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