教会堂 | 建築随想「仙芳丸航海日誌」
ヤマグチ建築デザイン
「聖マーチン イン ザ フィールド教会」問題

 

トラファルガー広場にある教会である。英国国教会に属している「聖マーチン イン ザ フィールド教会」は、ジェームズ・ギッブスの設計で1726年に完成した。ポンド紙幣にも採用された同時代の大建築家クリストファー・レンの陰に隠れて、彼の名は影が薄いが、ギッブスの作ったこの教会のヴィジュアルの方は、立地に加えてその象徴的な姿のおかげで、後に作られる全世界のキリスト教会にとって一つのアイコン(icon・偶像)となった。

 

アイコンは祭り上げられてこそ、意味が増す。「これ、売れてます!」とポップなコメントが、購買意欲を後押しするのは有名な話だ。本当に良いものかどうかは別として、「売れている」と形容されることで、価値が生まれる。

 

(パルテノン神殿)

 

全世界に領土を持つ大英帝国の首都である。しかも、パルテノン神殿を連想させるギリシャ神殿風の顔を持ち、さらには、ゴシックの尖塔を持っている。ギリシャの上にゴシックである。目立つもの、なんでも持ってこい!っといった感じだ。内部は、時代の風潮を色濃く反映した「ロココ調」のインテリアとなっている。ウチソトがバラバラな状況で、過去の様式をつまみ食いする。そういう時代だった。

 

なぜ、この教会が流行ったのか。

 

一つは、人の目を引けば良い、という発想だ。ギリシャ神殿にゴシックな尖塔というキャッチーな姿が人目をひく。すでに18世紀初めの人にとっては、紀元前5世紀のギリシャ神殿も13世紀のゴシック尖塔も過去のもので、選択可能な同列なもの・フラットなものである。ここは大英帝国なのだから、それらをコレクションとして自分たちの広場に一品加えるのも、一興である。支配欲と物欲を満たすというものだ。内部は、同時代のファッションとして最先端の空間がある。都会のレディたちも喜ぶはずだ。

 

また、もう一つは、楽をしたい、というものだ。この教会には、ドームがない。ラベンナの初期キリスト教会で発達したドームは、この広場の教会が登場したことで消滅した。教会内部にとって重要な内陣部分、つまりは、祭壇・聖餐卓の上部に巨大なドームをかけるという「定番」のスタイルは、不要だという宣言を世界に向けて表明している。あの大金が掛かるドームは作らない方が良い。工事が楽になる。ただし、ただなくすだけでは、威厳と説得力が欠けるので、玄関上部に尖塔をつけることで、代替している。ドームの代わりに尖塔である。

 

(ラベンナのサンビターレ)

 

(ロンドンの聖ポール大聖堂、レンの設計)

 

「聖マーチン イン ザ フィールド教会」は、アメリカ大陸において、教会堂のモデルとして、持て囃された。本国の一流の教会堂として超有名だった。憧れの的だった。もっとも、開拓時代のアメリカ大陸では、石造ではなく木造で作られたが、「大草原の小さな家」(1870年代の設定)に出てくるあの教会もこれがモデルだし、アニメ「ポパイ」(1930年代)に出てくる教会もこれがモデルだ。ミシシッピ川以東の原住民を排除した白人の土地(*1 に建てられた教会は、多くがこのタイプだった。白人を賛美する「西部開拓映画」に出てくる教会も、このタイプだ。簡略化されてギリシャ神殿の顔は無くなっているが、玄関の上の尖塔の方は、生き残った。三角屋根の玄関上部に塔を建てるというこのタイプは大売れだった。「これ、売れてます!」の連発だった。

 

これが、爆発的に流行したのは、建築とは少し遅れてイギリスからアメリカへ移った「リバイバル運動」の影響もあった。宗教改革時代には、真剣に取り組んでいた、会衆が礼拝に参加しやすい座席配置についての考え方は、19世紀には失われていた。縦長の礼拝堂には、前から後ろへ向けてベンチがまっすぐに並んでいただけで、玄関近くの信者にとっては、聖餐卓さえ見えない状況だった。もしくは、聖餐卓は置かれていなかった。でも、大きな声で熱心に語る説教者の言葉を聞くだけで良いとする受身的な「リバイバル運動」の最中では、これでも十分な礼拝となっていた。

おまけに、ヴィクトリア朝の裕福な社会情勢の中で、イギリスでは、ゴシック様式こそが、教会に相応しい建築だと信じられていた。通称「ゴシックリバイバル」と呼ばれるこの運動が、アメリカにも良からぬ影響を与えてしまい、裕福な教会は甘美な装飾を付け加えることだけで満足して、基本的な形式自体は変えようとしなかった。

 

日本へやってきたプロテスタントの宣教師たち*(2 、そして、敬愛するヴォーリズ(1880年生まれ)を含めた建築家たちにとっても、「教会らしい建物」の一つに、「聖マーチン イン ザ フィールド教会」が、確固としたものとしてあった。それは、18世紀に原住民を大量に虐殺したあと、その生き残りにズボンを履かせて、強制的に居住地に押し込んだように、建物の領域にまで彼らの信じるところの「聖書的正しさ」を押し付けていくスタンスと言える。福音と文化・生活をごった煮にしたまま、意気揚々と布教していったのだ。そういう中での「聖マーチン イン ザ フィールド教会」は、彼らにとっての教会堂の「正しい回答」だった。

ヴォーリズ建築は、ハートフルで、親しみやすく、日本のキリスト教会にとっての一つの「規範」となっているが、ヴォーリズ自身の生まれた時代や環境によって、「越えられない制約」が生まれていることも、また、認めるべきだろうと考える。

 

宗教改革時代には、初めて自国語で語られる聖書の言葉を、さあ、我、聞かん!と中央に迫っていく信者たちがいた。テレビショーで、有名人が質問ぜめに合う光景を思い描いてほしい。前のめりに話を聞きたいときには、ある一点を取り囲むように、人だかりができるもので、そういった自然な状況を、座席の配置に落とし込んでいく作業が、宗教改革時代になされていったものだった。スイスやドイツなど、公に新しい信仰を告白できた地域では、古くからの建物の内部において、家具・座席の配置換えを行なっていったし、そうではない、フランスなどの地域においては、自分たちの寄付を寄せ集めて、独自の建物を築いていった。それは、20年前の卒業論文に書かれていて、抜粋バージョンは、『クリスチャン アーティスト』(バイブルアンドアートミニストリーズ編、)に、「プロテスタントの教会堂を考える」として収録されているので、そちらを参照してほしい。

 

しかしながら、「聖マーチン イン ザ フィールド教会」は、未だに日本中にあふれている。全国のキリスト教会のどのくらいの割合が、「聖マーチン イン ザ フィールド教会」なのだろうか。これは、日本全国のキリスト教会が未だに直面している問題で、無意識に「聖マーチン イン ザ フィールド教会」の後を追っている教会が後を絶たない。「リバイバル運動」の悪影響をぬぐい切れておらず、まるでそれが「正解」であるかのような、疑いのない「回答」であるかのような、思い込みよりもさらに後退した、意識できないレベルにまで浸透しきっている。その浸透力は半端ない。

 

ここまで読んだ、クリスチャン以外の方にも、伝えたい。

日本では、戦後に都会においての住宅難という重大な必要に対応するために、早くて安い住宅が要請された。当然である。寝起きできる家がないのだから、当然である。ダイヤハウスなどのプレハブメーカーは、戦後の数十年においては活躍する必然性があったが、1973年に世帯数と住宅数が同数になった時点で、すでに役割は終えていたはずだった。その後は、ソフトランディングすべく、軌道修正をするべきだったと、私などは考える。

しかしだ、未だに、テレビCMでは、幸せそうな姿を俳優が演じていて、この家に住めば幸せになれる、と言っている。実際のところ、ダイワハウスの株主は、国際銀行家を始めとする外国人に上位を占められており、幸せになるのは外国人の方だ。

 

単純化された形を、繰り返して、生産(建築ではなく、「生産」!)していくのは、規範となった「聖マーチン イン ザ フィールド教会」を作り続けた教会たちと同じに映る。住宅メーカーの住まいには、生活する人の姿はなく、あるのは、作る側の論理である。その原価率は、著しく低く、営業マンでさえ、驚くほどだ。それらの家に対して、信頼を寄せていく多くの日本人も、また「聖マーチン イン ザ フィールド教会」の問題を引きづりながら、過ごしている。

 

キャッチーな形から入る必要はなく、そこで行われる活動から結果的に生まれる形を、求めれば良い。自分たちの体型にあった衣服を、身につければ良いのであって、お仕着せのものを纏う必要はない。イエスが、ガリラヤで船上から説教した際(マタイ13章)には、波打ち際を境にして、聴く者と語る者が、自然な姿で、対峙していたはずだ。その姿をそのままに礼拝堂にすればよく、そこから平面的に展開すれば良い。日本における教会堂は、何も「聖マーチン イン ザ フィールド教会」である必要はない。

 

以上が、「聖マーチン イン ザ フィールド教会」問題である。

 

(児島聖約キリスト教会礼拝堂、1995、ヴォーリズ事務所)

 

(児島聖約キリスト教会和室棟改修、2008、山口晋作)

 

卒論を書いて以来の20年ぶりの「教会堂論」だった。本来は、建築領域の「ゴシックリバイバル」や、キリスト教界内での「リバイバル運動(信仰復興運動)」について、概況を述べる必要があるだろうが、詳細を述べたとしても、より文章が長くなるだけで、骨子は変わらない。「死せる正統主義」や「神学のスコラ化」がなんなのかは、専門書を読めば良い。その後の「リタージカル運動」については、すでに卒論にまとめた。大事だったのは、「ゴシックリバイバル」と「リバイバル運動」の悪影響についてだった。今後書くとすれば、日本のキリスト教会の変遷を丁寧に書くしかないだろう。先人の成果があるが、概略すぎて、あまり感心できない。

これらの教会堂の歴史が語られないのは、ないがしろにされているわけではなく、書くに値しない、ごくごく一般的な傾向だからなのだろうと、今では、思っている。一般的というのは、人間の持つ弱さというか、現代社会の持つ弱さが根底にあるもので、それが当時のキリスト教会の世相に反映されていただけだろうと、思っている。

 

当時は、博士論文を本気で書こうと思っていたが、後で気づけば、フランス語や英語で同様の文献はすでにあったで、学術的な価値は与えられなかっただろう。いくつもの文献を海外から取り寄せて、辞書を片手に読み漁ったが、新たな知見は出てこなかった。故人となった鈴木博之先生の研究室に入ることができず、自分の能力に限界感じて、白紙のまま、倉敷に帰る決意をした。当時は設計事務所を行うとは思っていなかったが、今ここに至るのは、ありがたいことだったと思っている。指導教官の泉田英雄先生、竹田一英君や当時の親しい友人たちに報告したい。

 

ということで、過去の論文と写真を振り返りながら、リハビリのようにして、短い続編を書いてみた。半日で書いたため乱暴な展開となったが、これで良いと思う。これからも、日本に行けるキリスト教会の教会堂について、倉敷の児島から考え続けたい。

 

 

 

 

注脚(1;

1830年、白人たちは、ミシシッピ川以東を占領したあと、西部開拓の最前線基地として「ブレンワース砦」を築いた。その砦は川を越えて西側に建てられ、アメリカ陸軍最古の施設となった。ブレンワースは、ヴォーリズの生まれた町である。

 

注脚(2;

日本には、1870年代に初めてプロテスタントの宣教師がやって来た。

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