倉敷建築工房 山口晋作設計室
将来を担う子どもたちに、明るく暖かい日々を

学生発布(1872年)から150年が経ち、多くの小学校で今年度から記念事業が行われているけれども、とても素直だった子供時代から一転して、子を持つ親の立場で現在の学校を眺めてみると、とてつもない違和感を感じる。

 

僕自身が子どもだった当時から既に問題視されていた「不登校」の課題の存在感がますます大きくなり、昨年度令和3年度は過去最高の24.5万人に達したとの報道があった(9年連続増加)。この数字は全体の5%で、20人に1人の割合であって、かなり大きな数字となる。200人に1人なら0.5%だけれど、そうではなくあくまでも5%だ。これは、30年以上前に僕が中学生だった時の下津井中学校一学年当たりの不登校児の数のなんと6倍に当たる。

また、子供だけではなく先生たちも同様だ。教員としても忙しい日々の中で更なる業務が多方向から求められるという多忙な毎日を過ごし個人的な生活を犠牲にしすぎた結果、体調を崩す者も少なくない。学校に属する子供も大人も原因不明の病に罹ったように学校に来なくなっているのだ。こうなってくると、これはもう、当事者個人に原因があるのではなく、学校という組織自体に問題があるのだと最近は考えるようになった。

これら以外にも幾つもの課題が山積みの中で、学校という機関が始まってから150年も経ったことを機に、これを一度解体する処方を出してはどうだろうか、と提案したい。学校に対する認識を解体し、そして再構築するのだ。

学校にあわない子どもが急増したのではなく、社会の変化に対応した現代の子どもたちに合わない学校が追いついていけない学校がまだたくさん残っているということであり、「不登校」ではなく「行くまでもない学校」との判断を評価を当事者本人である子供からされているのだと、考え方を改めた方が良いかもしれない。同様に、教員に能力がないのではなく、社会からの要求水準・要求角度のピントが外れすぎていて、各学校それぞれの職員室における秩序や雰囲気というフィルターを通して出力した結果、二重三重の錯誤が生じた状況を保護者は目の当たりにしているのだと理解した方が良いではないだろうか。そう感じる。

 

元々学校というのは、アメリカ独立戦争とフランス革命で芽生えた国民国家という共同幻想概念の仕組みがナポレオンによる幾多の戦争でうまく機能したため、その国民国家概念を浸透させるための大きな機関として作られており、その目的に加えて、きちんと仕事ができる工場労働者(現代日本では、「会社」と同義)をたくさん育てる機関として、国家や行政・自治体がその費用の全てを負担して進めてきたんだろうけれども、2022年の11月現在においては、もうその元々の目的というのは達成されたはずで、歴史の教科書に記載されるほどの成果を既に挙げた。

で、あるならば、別の主体が、国家ではない別の主体が教育を担うような段階にすでに到達しているのではないかな!?という視点から考察してみると、腑に落ちる気がしてきている。

150年経った日本は、十分に豊かになり国際的な立場も随分と強くなった。僕自身の感覚だと国に変わる別の主体が求められている中で様々な歪みが生じてきてるのが現在の状況のように感じている。

 

日本史上初めて、確実に人口が減っていく時代に僕たちは生きている。学生発布150年を機に、新たな心持ちで学校における課題を受け止めて、学校への認識を再構築することで、明日を担う子どもたちの日常が明るく暖かい日々となるように願っている。

| 23:40 | comments(0) | - |

まちづくりは雑談から生まれる

前二つのログを短くまとめると、「人口減少問題というのは、課題ではなく結果であり、受け入れるしかない。」という短文に収まる。もう40年ほど前から、これから人口が減りますよー、と人口問題研究所が警鐘を鳴らしていたのだから、議論の余地はない。人口を減らしたくない、人口を増やすにはどうしたら良いのか、という感覚で議論を進めていこうとする方に対しては、諦めなさい、そしてあなたの熱意が報われるために、身近な人たちと雑談をしなさい、と言いたい。

 

 

(旧児島公民館・図書館、設計は岡田新一)

 

 

まちづくり、言い換えると、都市の発展というのは、雑談・余談から生まれると思う。雑談のいいところは、いろんな意見がフラットに飛び出してきて、掛け合わされて行き、希望へとつながるところだ。よく言われることだけれど、イノベーションとか新たな創造というのは、ゼロから生まれるのではなくて、既存の技術・アイデアが組み合わされることで生まれるのだ、という要点はその筋のあらゆる文献が教えてくれることで、実際にそうだし、それは都市発展だけに限ったことではなくて、文化でも料理でも産業でも同じで、僕が専門とする建築設計においても同じだ。矢吹楢村両氏が旗を振って進めてきた古民家再生工房がやったことも、6人の建築家が切磋琢磨した結果が、新たな住宅設計の新基軸を生み出し、地域の工務店や全国の設計業界へと広がったのだった。

 

雑談や余談というのは「オープンな議論」であり、いろんな意見がフラットに飛び出す場なんだが、それの対比的な状況が、いわゆる「会議」だ。関係者の意見や状況を予め擦り合わせたシナリオに沿って、初めに結論ありきの会話を形式的にやっているだけであり、冒頭の逆だが、課題とすべき場を結果としてしまっていると言える。結果が決まっている場においては、「正しい意見」や「貢献するだろう発言」をしないといけない、という空気感に覆われてしまい、私なんかが発言できる立場にないので黙っていよう、となる。失敗が許されないのではないか、という感覚を持ってしまうのだ。これではもう、時間の浪費でしかなく、残念なことだ。僕だったら、席に座ってスマホをいじってこういうブログ記事を書いてると思う。

一方、雑談の場合は、面白いことや楽しい話題をぽんぽん話したくなるし、誰かの議論を聞いてると実は私も同じこと考えてました!となるのは、よくある話だし、それぞれが好きなこと得意なことを持ち寄ってこれから何かができそうな雰囲気になるのである。ピントがズレたことを言ったとしても、ぜんぜん許されるし、会議とは違い、同調圧力も少ないので、適当なことを言いながら、大体みんな笑ってる。幸せだ。そして大事なのは、そこにいるのは、天才ではなくて普通の人だという点であり、既存の技術、既存のアイデアであろうけれども、それらが掛け合わされるという作用が新たな展望をもたらす。もっとも、実際に進めるのはとても大変だが、実現できそうな希望が生まれるという点が大事だ。「オープンな議論」の場というのは、フランスのカフェ文化やイギリスのパブ文化が有名だし、日本でそれに相当するのはカジュアルな喫茶店か居酒屋での会話だろうが、より分かり易い好事例が、女子高生が放課後におしゃべりしている場で、女子高生のあの感覚はもっと評価されるべきだと思う。

 

 

(児島市街地に建つ近代建築)

 

人口減少問題というのは、課題ではなく結果であり、受け入れるしかないのだが、ではその先はどうしたら良いのか、という課題については、小さくまとまって楽しく住む、ということだろうと思う。「立地適正化計画」なんて言葉を都市計画の人たちは使っているみたいだけれど、ただでさえ、フェアな議論がしにくい分野なのに、一般市民との溝をさらに広げるような用語を作り出さないでほしいと思う、せめて「コンパクトシティ」にしてほしい。

 

まちづくりは雑談から生まれると思う。

最終的には建物を作ることが必要だが、建物を作ることがまちづくりではない。小さくまとまって楽しく住む、というのは、多様性を保ちながら近接性とそれによる交流(余談・雑談)のことを言っているのであり、そこから生まれるアイデアが都市の発展に繋がるということだ。縫製業を生業とする自営業者が児島では非常に多いが、いろんな職種が小さい地区にひしめき合っていたことが、縫製業が発展した所以であることは、業界外の人にもわかりやすい事例だろうと思う。都市の発展も同じであり、高度成長期に広がりすぎた都市を今後は小さくしていこうとする「コンパクトシティ」の概念には賛成だし、それの効用というのは、近接性による交流の促進、すなわち雑談だ。空き家問題の解決が進まないのは、固定資産税評価方法の難点が解決されない限り難しいと思うけれど(行政にはこの点を期待したい)、それよりも雑談が圧倒的に少ないせいなのであるから、(下津井と唐琴を除く)児島の人は旧塩田の向こうにある海に向かってカフェに座り、雑談をしまくることである。

 

そんなことを念頭に置きながら、夜散歩を楽しみ児島の街を愛しつつ、ジョギングアプリ機能で絵を描いてみたりした。ひたすら雑談をする仲間を増やすために今年に入って小さな飲み会をスタートしたし、かつて下津井でやった空き家活用事業のバージョンアップ版を味野地区でもやろうと思う。本業も忙しいけれども、地域に住む専門家としてできることは今後も続けて行きたいし、松島での活動もそうだけれど、こういうことの継続が街の文化を培っていくことに繋がると思っている。

 

 

(児島市街地を歩いて絵を描いてみた)

| 10:30 | comments(0) | - |

再インストール・セットアップ

戦前までの諸々の秩序を否定して、戦後に再構築された色々な制度が、75年以上経って使い物にならなくなっている状況は、そこかしこにある。これを読んでくださる方もそれはもう痛いほど知っているはずだ。

 

もっとも国会や地方自治体で立法された法や条例は、それなりに広範囲に適用できる社会状況を前提にして作られたんだと想像するんですが、現代の状況変化の中では、法に従うことによる不利益の方が大きくなる、ということもままある。

それでも、これは法で決まっているし、従うのが人としてあるべき姿だろう、社会人たる人はそうすべきであるし、していないとなんだか後ろ指を指されそうな気もする、と諦めてしまうのだ。

しかしながら、こんな状況が繰り返されると、本当に可笑しな法や条例(や社会規範)が放置された脇では、まったくその制度にそっぽを向いて生活を続けていく人たちも出てくるだろう。

 

戦後の新生日本国家が作った法や制度が、前提としていた社会は、当時としては希望に溢れて、未来がどうなるのか、どうあるべきなのか、といったいわば未来の視点から(当時の)現在を見てみて必要なことを作っていったのであろうが、そういう「仮の前提」の姿の方が、戦後日本にとって歩むべき道だと、人々の頭の中での幻想のような状態の社会ができていたのだろう。それは、個人個人の勝手な想いというよりも社会全体で共有していた態度だ。が、しかし、令和の現代に至っては、その幻想を実現したいとする態度を守り続ける方向を執着しすぎていることによって、理不尽な状況が生み出されている。


(倉敷市役所児島支所5階から東を臨む)

 

とすれば、もう一度、「未来の視点から現在を見てみて必要なことを作っていく」という作業が必要なはずで、いろいろな案件の過去の経緯や前例を持ち出してきて、これこれはこのような事情ですので、今回はちょっと難しいですね、みたいな行き方というのは、残念で、そういう出来事がそこら中で起こっているのが、平成令和の現代ではないだろうか。

 

昭和50年生まれの僕が10代のころは、いわゆるバブル期で好景気を経験していて、たとえば、その頃に大規模な開発をされた、歩いて10分圏内に広がるJR児島駅(瀬戸大橋線で香川県に通じる岡山県最南端の駅)の駅前の状況などを概観すると、当時の社会が抱いていた未来像とのギャップが明確に感じられて生きた教科書というか生き証人的な地区に僕には見える。中学を卒業してから出来立ての児島駅から高松高専に通っていたのだから、証人になれるだろう。しかしながら、更に下の世代、たとえば、15歳くらい年下の世代となると、彼らはずっと停滞した日本を生きてきているので、この現実とどうにか折り合いをつけているだろうなというのを、最近、若い人たちと話していて感じている。

 

離婚する方向で進んでいる友人家族が、小学生と保育園に通う子供のために祖父母の協力を得ているのを知ると、これは(かつては理想的形態であった)核家族化の弊害だろうかと推定し、日本全体の経済発展のために国と経済界産業界が全力で進めてきた「新築住宅バンザイ」的な信仰について懐疑的になるし、東京都の小池知事が「都内で新築住宅を作るときには太陽光パネル設置を義務化する条例を進めたい」などと言っているのを聞くと、その前に、アルミサッシを止めると共に断熱材をモリモリにするのを義務化することが先だろうと(心の中で)ツッコミを入れると共に、このアルミサッシというものが戦前から続く工業化の延長で導入された住宅建設上の「理想的形態」であったことを懐古すると、核家族にしてもアルミサッシにしても「過去の理想」的な実績を重視するあまりに、ネガティブな現実を強いられている令和の国民の生活が可哀想でならない。

 

 

(児島地区の都市計画図、赤色の部分が防火地区準防火地区)

 

地元の都市計画についても、気になることはあり、かつて1965年時点では岡山県第三の都市であった児島地区は、現在は6番目でもうすぐ7番目になろうかとしているのに(岡山、倉敷、津山、水島、総社、児島、玉島)、50年前の状況下で作られた都市計画が継続していて、特に防火地区準防火地区の地域においてその制限のために土地の売買に支障が出ているということを不動産屋の知人から聞くと、またコレかと落胆する。ゾーニングするのは、勢いのある人々の営みを誘導することが前提条件なのに、その「勢い」がなくなっても、これはこれこれの事情がありますので、防火仕様の住宅でお願いします、建築基準法違反です、という指導は、ダサくて失笑してしまう(そういえば、昔こんな記事を書いた 「団地よ、山に還れ。民よ、集落に還れ。」「団地よ、荒廃せよ。若者よ、集落に帰れ。」 )。昨日も、とある工務店の人から、山口さん、味野商店街で新築するときは、防火地区なのでそれなりの仕様にしないとダメなんですよね、という失望と諦めの漂う問い合わせがあった。今度、都市計画課に行って、大きな問題が発生していると意見してこよう。

 

(児島玉島総社各地区の過去15年間の人口推移グラフ)

 

変化を志す芽を育てたくないおじいさん達の態度、彼らの社会に対する「現状追認主義」という態度が、あるべき理想像を踏み潰しているのではないだろうか。かつて戦後すぐに頑張って理想を描いたように、令和の時代にあっても、過去の意識・思想を「アンイストール」して、再度のセットアップをして欲しいと、切に願っている。若い世代が取り残されている感覚を回復するためには、現在のような高齢者ばかりを優遇する社会を今すぐやめるべきだと思う。権限を持ち続ける事を諦め若い者たちに譲り渡してほしい、若しくはこういう文脈の中で自身の思想を転換できないような高齢者は、端的に言えば、(社会的に)死んでほしいとも思う。早く死ね、もしくは、再インストールだ。

 

 

(年末に訪れた箱木千年家は、休館中だった)


 

| 08:00 | comments(0) | - |

アンインストール

3年ほど前に、仕事で使うカメラを求めて行き着いたのが、iPhone11Proだったけれど(広角がスゴかったんです)、ながい間使ってるうちに、使わなくなったアプリケーションが増えてきて、先日、整理をした。整理の定番であるフォルダ分類に加えて、これまた定番の「アンインストール」を行なった。昔のマック(僕は30年近く前からマックユーザーだ)では、自分の手でドラッグして、関係ファイルをゴミ箱に入れるしか、削除方法はなかったのだけれど、いつの間にか、アプリの削除はとても便利になっていて、便利さに感謝するのも忘れるほどだ。

 

削除しながら思ったのだが、人間も通用しなくなった適用できなくなった以前の考え方・姿勢を、「アンインストール」できたら、なんて素晴らしんだろうか、「アプリ」を削除するけれど、システム運用のスキルみたいなものは、残っていて、そのスキル(つまりはOSか)のアップデートは継続しつつ、社会状況に適応できるアプリを手に入れて、日々の仕事に当たっていくのだ。

そして、ここで大事なのは、自分が持っているアプリが通用しなくなったのだ、との認識が持てるかどうかだろう。

 

ひと月ほど前の岡山市長選挙では、人口減少時代における「まちづくり」が争点の一つだったようだが、新人候補が市域の8割を占める市街化調整区域の規制を緩めて開発を進め、中心部では容積率の緩和をしていき、人口100万人を目指すのだ!との公約を掲げて戦い、残念ながら落選していた。市街化調整区域とは、原則として新たな建物を作らないようにして、一定の区域の中心部分だけが市街化するように誘導する仕組みだ。日本全体では、確実に人口が減少していく中で、岡山市だけがグングン伸ばすぜ!との、空元気な論理展開を聞き及んだ時は、正直言って呆れてしまった。人口減少時代には、確実に!現実に!厳しい状況が我々を待っていることを肝に銘じつつ、その前提の中でどのようなスタンスをとっていくのか、という崖っぷちレベルから腹を括ってスタートするべきではないだろうか。

 

人口問題研究所や厚労省の発表では、40年後の2060年には、日本全体では現在よりも4000万人の減少となり、8600万人くらいの規模となることが予測されている。ちょうど現在46歳のザ!中年である僕が、立派なオジイサンになっている頃だ(もしかしたら、もう死んでいる!)。確かに、2010年度の国勢調査の結果からは、地方都市としては、札幌236万人仙台161万人に次ぐ都市圏を構成している岡山倉敷都市圏153万人ではある(広島都市圏143万人が岡山に続く)が、こちらは広島と違って、平な地面が多いために道や建物を開発しやすい特性があり、そのため新人候補の主張は妥当性もあり、ある程度のアドバンテージを持っている。しかしながら、人口の年齢構成を下敷きにした上で、出生率と死亡率、そして国を超えた人口移動の数を因数としながら、専門家が予測した結果が、全国で8600万人、ということであり、その只中で、現在72万人の岡山市だけが突如として大躍進を遂げるとは想像しづらい。その頃には、倉敷市47万人に近い人口を持つ山陰の鳥取県・島根県はどうなっていくのだろうか。

 

落選した新人候補は、あくまでも象徴的な存在だとの前提で聞いてほしいのだが、彼のような「無根拠な上昇志向信仰」を持つ人は多く、僕自身の経験では、やはり団塊の世代の人たちに、その確率が多い。戦後すぐにスタートした彼らの人生は、本当に日本が豊かになっていく過程と同時に育って行ったのであり、現実的な生活レベルは落ちているものの、心の中では上昇志向・安定成長志向がどうしても染み付いているようで、彼らと話してると、人柄が好ましい方であっても、この部分でどうも意見が合わないなー、と思うことが多い。東洋の奇跡!ぼっけえ成長!と言われた高度成長時代の残滓をアイデンティティにしている人とは、これからも話がしにくいだろう。

 

安定した成長が前提の社会では、その人が持つ幾つかの属性によって、社会の中での立ち位置が決まってきたのだし、正解が分かっている前提で「地図」を片手にして好みの道を歩めばよかったし、好みの道を歩いていく道中では、個人の努力だけでは説明できない大きなボーナス現象がバックで民衆を応援していてくれたのだった。具体的な事例を出すと、近所に住むとある女性の結婚相手の男性のことを、「あの人は市役所に勤めているし真面目な人だから大丈夫!」みたいな表現を当時はしていたようだが、人口減少時代の市役所は仕事がなくなること必至なので今の時代に行政に就職するのは確実に規模が縮小する会社に勤めることを意味するし、真面目だから大丈夫というのは、役割としてのやることが決まっていて淡々とそれをやっていれば良い時代にしか適用できない表現なので、僕に言わせると、全くもう、「大丈夫」ではない。そうだ、今日では、そんなことは全くなくて、乱れに乱れまくっている。

 

過去の歴史の秩序を謙虚に受け止めつつ、好意的に予測すると、現在は、新たなフェーズに入りつつあるのであり、変化の時代には「地図」よりも「羅針盤」が必要なので、技術の高まりによって必然的に起こるイノベーションが方々で起こっており、そのイノベーターたちが示す「羅針盤」を多数参照しながら、荒波を乗り切るのが、厳しい世情を示す現代という時代なのだろう。そして、このキビシイ現代に是非とも必要なのは、かつて身につけていた感覚・思想を、自分の身体から一旦取り外す、という行為であって、冒頭に書いたように、最近のスマホのアプリ(ケーション)の用語でいうと、思想をアンインストールする必要だあるのだと思う。学んだことを一旦捨てるのだ。

 

安定成長の時代では、官僚に代表されるような、他人が作ったルールの中でゲームを攻略するのが得意な人たちが世の中でリードして行ったのだったが、一方、変化の時代では、自分でゲームのルールを作り直せる人が必要で、そう言う人のことを経営者と言うのであり、その意味では会社員であってもみんなが自分の生活を経営していくのだ、という心意気で、そういう意識で生活していかないといけないだろうと思う。

 

博士号を持つ人に対して企業が抱く一般的な印象である「使いにくい人」というものも、安定社会の中で閉じられた研究をしていたのだろうとの前提でドクターを捉えるからであって、僕の友人知人の博士号持ちたちは、全然そんなことはなくて柔軟かつ新たな姿勢を展開できるような人たちだ。すでに別の世界に変わっているのを自覚できた人たちと、閉鎖的でいまだに安定した社会構造の中に自分がいるのだ、と思っている人の世界観はずいぶん違うのだと思う。文明の過渡期である。

 

僕がいつも積極的にしている社会での感覚を個人に適用するアナロジーを、今回も展開すると、昨今の文明の過渡期においては、「その人らしさを取り戻す」というのが、結構大事なのではないかと感じている。人が成長の過程で身につけた色々なアプリを良いタイミングで「アンインストール」できた時、その人個人が実感する「取り戻せた感」が原動力となって、荒波の中でのその人のいくべき方向を示す羅針盤が見つかるのではないだろうか。方向が定まったならば、新たなアプリをインストールして、もしくはセットアップして次の局面に対するのだ。

 

(児島市民交流センターでの「ととせマルシェ」の会場計画を行いました)

| 23:10 | comments(0) | - |

自治とレンマの回復

本稿は、松村圭一郎氏(岡山大学文学部准教授、文化人類学)が行っている市民参加型の講義「寺子屋スータ」(企画+会場;スロウな本屋、岡山市北区)を受講後に提出した宿題を転載しています。南方熊楠大先生を念頭に置きながら、バラバラになった現代社会の中において、生活者として自治感覚を回復したいという思いと共に、熊楠大先生が取り組んでいた西欧由来の学問では捉えきれない全人的学問を、直感的に全体を把握するスタンスで取り戻したいとの感覚を持って、書き記したものです。

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衣食住にまつわる大事な事を人に任せても、平気でいられるのが近代社会だと思う。

人に任せる、というのは、西ヨーロッパで生まれた近代思想が世の中を覆い尽くす前からあったものだけれど、それに慣れきってしまって、「任せた向こう側」、もしくは背後にある状況や概念に対して無頓着になり平気になり、その先には、その「大事な事」についての倫理感覚も緩んでくる社会に私は生きている。私自身の心の中にもそういった思想が広がっているのを知っている。おそろしいけど、それが事実としてある。

生まれ故郷の下津井田之浦(と山向こうの大畠地区)は、かなり古い時代・旧石器時代から集落が形成されていたことが確認されている(し、ついでに言うと、鷲羽山周辺には古墳時代の古墳が5基あり、平安延喜式神名帳の式内社に登録されている神社もあって、幼い頃はその神社のお祭りを楽しんだ)。つまり、あそこでは、かつては字単位、もしくは大字単位くらいの広さの中で、衣食住の生活が成り立っていたことになる。しかしながら、現在では自分の時間ですら自由に占有できない状況に囲まれており、先進国+BRICsをはじめとした世界レベルでの動きのなかに向かって、かなりの風圧力で自分たち自身の生活の方が、選択肢を与えられないままに取り込まれている。その生活の中では、自ずと自治感覚や当事者意識を持ちにくくなる。

本業である住宅設計(住宅以外の設計の際にはこれに留まらない)をするにあたり、基本思想として重視していることは、産業革命以降の仕組みに軸足を置いて設計をしない、ということだ。どういうことかというと、車や家電のように工業化しないと世の中に出現しえない代物と違い、住まいというのは、人がこの世界に生まれたそのときから、いつでも・常に・同時に・いやでも、「ある」わけで、やはり、「産業」や「工業」ではなく「生活」だよな、生活に軸足を置いて設計に取り組むべきだよな、とおもうわけです。

 

戦後の日本は、戦勝国の経済的植民地という役割を持ちながら、工業生産力を拡大を至上命題に、富国強兵なき文明開化を続けた。建築人に対しては「戦後民主主義の時代」に相応しい建築とは何か、という政治的フォーマットが掛けられ、丹下健三大先生が大活躍した。50年代と60年代は建築人が行政からチヤホヤされる時代だったが、東大都市工の丹下研が閉じる頃には、それも下火になっていた。ちょうどその頃、1973年には、世帯数を住宅数が上回わり、(加工前の鉄鋼である)粗鋼生産量も最大に至ったので、30年ほどで(工業生産力を指標とした)戦後の復興を結果として成し遂げたこととなった。つまり、それまでの30年間は、政治的要請で建築家が世の中に顕在していた事になる。その後、2000年までの25年は、住宅ローンが民間に解放された「住専」が誕生し「消費者」が住宅を持てる時代であったと共に、都心では容積率緩和を契機にした地価高騰を進めた末に「消費の海に浸る」建築人たちが多発した(プラザ合意を経てのバブル経済とその余力は2000年頃には衰えた)。

そういう経緯を踏まえて言うと、伊東豊雄大先生が還暦を迎えた年2000年に完成した「せんだいメディアテーク」が、明治以降の技術官僚や戦後の大建築家(丹下健三大先生、磯崎新大先生、伊東豊雄大先生)の活躍の終わりを告げた建物だったと私は思っている。それは、建築家の特権的主体性が無効化された時代が到来した事を意味していたのであり、いまから考えれば、2000年以降の建築家たちは新たな職能のあり方を考えるべきであったと思う。

政治的な課題や経済な課題を解決するために、代理者実行者として世の中に顕在していた建築家たちは、2000年以降はどのように生きていけば良いのだろうか。歩み出す道の方向を誤ったのであれば、まずは、そこまで遡って振り出しに戻るべきだろう。つまりは、開国以降、西欧思想を両手を持って受け入れた時に戻って、そこから別の経路(パラレルワールド)を辿った「文明開化」があったかもしれないと考えたい。そういった仮説を立てることで、自分が私有できない自分の時間の問題や、字単位や大字単位での暮らしをベースにした自治感覚の回復を企てる基礎を据えることができるだろう。

 

今回の「寺子屋スータ」で読み込んだ、南方熊楠大先生(1867 - 1941)は、江戸から明治に切り替わる頃に、教育を受けて、清国由来の漢学と同時に、(19歳から14年間もの間、アメリカとイギリスで過ごして)西欧の学問も修めていた。彼の研究で代表的なものは、粘菌研究だけれど、粘菌という動物と植物の間にある生き物を通して、理屈ではわからない人間の有り様を彼は分かりたかったのだと思う。

粘菌は、植物と生物の間を行き、生と死が分離できない状態のユニークな生き物で、全体でバランスをとりながら、生死が重なり合う全体運動をしている。それは、現代の我々(近代思想に覆われた我々)から見ると混乱するような状態だけど、日本は元来そのような世界観を持っていたし、日本だけではなく、世の中というのはそういった粘菌の生態のようなものなのではないだろうか、理解するのではなく感じるのだ、という視点を熊楠大先生は教えてくれた。

彼はおそらく、ロンドンの大英博物館に通いながら、ギリシャ語でいうところのロゴス(事物を整理立てて言葉にする)ではなくて、レンマ(直感によって全体を丸ごと把握し表現する)としての学問が、今後は必要だろうと察知したのだろうし、文物ではなく、生き物である粘菌を、つまり、自分が生まれ育った田辺や熊野にある粘菌を知ることによって、自分自身を知ろうとしたし、自分を通して世界を知ろうとしたのだと思う。

 

日本人は、欧州人との安定した関係性の構築においては、常に頭を悩ましてきた。今から450年ほど前、信長の時代(織田信長1534 - 82)には、スペインがフィリピンを植民地にした(1565 - 1898)後に、日本にやってきたイエズス会宣教師たちと関わる中で、彼らの向こう側に見え隠れするアジア侵略の意志を感じ取り、外国人と決別した。江戸の終わりの開国の頃には、隣国でのアヘン戦争(1839 - 42)があったが、英国らによるその後の上海の大変化を二ヶ月の滞在で骨身に染みて感じ取った高杉晋作(1839 - 1867)などは、日本の行く末を案じて過激な行動をとる。同じ年1862年の年末には品川イギリス公館を焼き払い、翌年には奇兵隊を組織して下関でイギリス艦隊と対峙した。

南方熊楠大先生(1867 - 1941)は、その状況を受けとめた上で、これからの日本はどうあるべきか、という一点を解きほぐしていったに違いない。あまりにも、考え方が違う欧州人と関わる際には、彼らがすっかり忘れてしまったレンマ(直感によって全体を丸ごと把握し表現する)という感覚を使って、世界を捉えて、自分の生活も捉えていけば良いのではないか、それを図式化したものが「南方曼陀羅」だった。

 

2000年以降の建築家はどのように振る舞うべきか。

建物に対して、機能や美しさ、調和した佇まいを求めるのは、当然のことだが、人との関わりよりも建築家としての自律性専門性の探求を重視して、そこに逃げ込むのでは、相応しくないだろう。既存の業界団体は内向き過ぎてダサいので付き合いきれないし、外的状況も建築家をそれほどチヤホヤしていない。それは、戦後復興期や安定した成長をしていた高度成長期・バブル経済という外的牽引力があった時には有効だったが、2000年以降ではそれはありえない。外的牽引力が失われ、歴史観価値観事実認識が多様化している現代では、空気を読むより、自分の本音を大事に生きたほうが良い。

では、どうするか。まずは自分が住んでいる街の、自分の身の周りの小さなレベルでの関係性を観察すること、そこに宿る小さな営みを着実に汲み取ることから、始めたいと思う。本来は、日常であるはずの「暮らし」が、非日常になってしまっているという現代だからこそ、こういった生活者が日常をベースとした建築活動が必要になっている。街での暮らしが楽しくなるために、建築系人材としての「御用聞き」として、広く自分を開いていくことが、これからの建築家としての前提だろうと思う(その先は、個人の資質によるものだ)。

街での暮らしというのは、いろんな因果があるけれども、こんがらがった時には、あえて理解しようとせずに、全体を全体として感じながら、熊楠大先生の感覚を思い起こしつつ、目の前の課題に対面してきたい。こういう文章を書いていると、こんなに声を上げて言うほどのことでもないな、とか、これは前も書いたかな、とか、そういうふうに思ってしまうが、それでも書いて、自分なりに整理しつつ同時に全体を感じながら、前に進みたい。

| 14:50 | comments(0) | - |




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